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「荻窪」の由来と武将ゆかりの地


「荻窪」の地名の由来となった「光明院」 MAP 1

現在は真言宗豊山派の寺院となっている「慈雲山荻寺光明院(じうんざんおぎでらこうみょういん)」の創建は708(和銅元)年とされ、行者がこの地を通りかかると、背負っていた尊像が突然重くなり運べなくなったため、周囲に生えていた荻を刈り取って草堂を建てて、安置したことがはじまりと伝えられている。やがて「荻堂」「荻寺」と呼ばれ信仰を集め、ここから「荻窪」の地名が生まれた。1850(嘉永3)年に再建された本堂は、1888(明治21)年の甲武鉄道(現・JR中央線)建設時に東北側へ移転した。【画像は1955(昭和30)年頃】

現在も境内を横切る形でJR中央線が通っており、南側への墓地へは地下道が通じている。写真の本堂は1969(昭和44)年に新たに建てられた大斎場の上へ移築された。

太田道灌ゆかりの「荻窪八幡神社」 MAP 2

「善福寺川」北側に鎮座する「荻窪八幡神社」の創建は寛平年間(889~898年)とされ、御祭神は応神(おうじん)天皇となっている。鎮守府将軍の源頼義が1051(永承6)年から続いた「前九年の役」の平定に向かう際に立ち寄り、戦勝のため祈りを捧げたという。1477(文明9)年、当時の「江戸城」城主であった太田道灌(どうかん)は「石神井城」を攻略する際、源氏の故事にならって武運を祈願した。その時に植えた槇の一株が御神木の「道灌槇」として残っている。写真の拝殿は1936(昭和11)年に新たに建造された。【画像は1936(昭和11)年】

「青梅街道」の南、緑の木々が生い茂る場所に鎮座する。「道灌槇」は本殿近くに残されている。

将軍が立ち寄った屋敷は、明治天皇の休憩所に MAP 3

寛政年間(1789~1801年)頃、十一代将軍の徳川家斉が鷹狩りの際に休憩するため、下荻窪村の名主を務めていた中田家の屋敷に武家長屋門をつくらせた。同地は1883(明治16)年4月に埼玉・飯能で近衛兵の演習の統監に向かう明治天皇が立ち寄り、その際に屋敷の離れを休憩所とした。同月、小金井で開催された観桜会の際にも立ち寄っている。離れは木造茅葺平屋建ての茶室風で、質素な建物だった。【画像は1936(昭和11)年】

武家長屋門と「明治天皇荻窪御小休所」の碑は、JR「荻窪駅」南口に近い場所に残されている。


湧水「遅野井」が生み出した「善福寺池」

画像は1938(昭和13)年の「善福寺池」

画像は1938(昭和13)年の「善福寺池」

荻窪の西側には、武蔵野の三大湧水地といわれる「三宝寺池」(「石神井公園」)、「善福寺池」(「善福寺公園」)、「井の頭池」(「井の頭恩賜公園」)があり、それぞれ「石神井川」「善福寺川」「神田川」の主水源となっていった。「井の頭池」は、江戸町民の喉を潤した「神田上水」の水源として知られているが、「善福寺池」も古来から湧水の恵まれた場所として、周辺の農民、江戸町民にとっての貴重な水源となっていた。MAP 4(善福寺池)

「善福寺」の名は、この地にあり江戸時代頃に廃寺となった寺院の名称からつけられたといわれる。武蔵野台地の50m等高線付近にあたる「善福寺池」の湧水の一つである「遅野井(おそのい)」は、1189(文治5)年に源頼朝が奥州合戦に向かう途中、飲み水のために弓の「はず」で土を掘り、水の出を『今や遅し』と待ったことから、「遅野井」の名称が生まれたという。ここから「善福寺池」は「遅野井池」とも呼ばれ、杉並区の誕生以前に存在した「上井草村」は別名「遅野井村」とも称された。

1930(昭和5)年、当時の「井荻町」が「善福寺池」周辺の地下水を利用して水道を開設するために工事を開始し、1932(昭和7)年に「東京市水道局」に移管されたのが「杉並浄水場」だった。1930(昭和5)年に「都市計画法」による風致地区に指定され、「善福寺風致地区」が誕生した。周辺は緑の豊かな場所であり、1961(昭和36)年には「都立善福寺公園」が開園し、住民の憩いの場となった。現在も「東京都水道局杉並浄水場」からは、豊かな地下水を揚水して杉並区などに送配水を行っている。また建築家の小尾嘉郎が設計した管理棟が当時のまま残されており、隠れた名建築となっている。MAP 5(東京都水道局杉並浄水場)


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