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「東海道」の整備により江戸の入口となった芝


「東海道」の延伸により誕生した「新橋」 MAP __ MAP __(帝国博品館勧工場)

「東海道」は、1601(慶長6)年に整備された。当初は、現在の港区芝四丁目あたりが起点だったが、その3年後に「東海道」が延伸したことで日本橋に起点が移ることになった。その際、現在の港区北東端に「新橋」が架けられ、文字通り『新しい橋』という意味で名付けられた。中央右手の白い建物は「帝国博品館勧工場」(現「銀座博品館」)。【画像は明治後期】

「新橋」が架かっていた「汐留川」は埋め立てられ、現在は「首都高速都心環状線」が通る。「新橋」は親柱のみが残されている。「首都高速」の後ろに見える中央の白い建物が「銀座博品館」。

「芝口」を通る「東海道」 MAP __

1710(宝永7)年、「江戸城」の「芝口御門」が「新橋」の北側(現・中央区銀座八丁目)に建てられた際に「新橋」は「芝口橋」へと改称された。「芝口」は「江戸城」の「東海道」芝方面への出入口を意味する。1724(享保9)年に「芝口御門」は焼失したため橋名は「新橋」に戻り、「芝口」は地名として残った。写真は明治中期、芝口一丁目(現・港区新橋一丁目)から「東海道」沿いの街並みを撮影したもの。中央の屋根が少し高い店は、江戸後期創業の佃煮・煮豆店「玉木屋」(現「新橋玉木屋」)。右上には「愛宕館」「愛宕塔」が確認できる。【画像は明治中期】

写真中央が「国道15号(東海道)」と「外堀通り」「昭和通り」の交差点。古写真の左側で「東海道」と交わる細い道は拡幅され、現在は「外堀通り」となっている。

多くの人が行き交った「高輪大木戸」 MAP __

江戸府内の入口として、「東海道」に「高輪大木戸」が設けられたのは1710(宝永7)年。各町に設置されている「町木戸」に対し、「大木戸」は江戸全体の治安維持を図るという意味合いを持つ。江戸後期に日本地図作成のために全国の測量を行った伊能忠敬は、「東海道筋」の測量に際して、「高輪大木戸」を基点とした。【画像は江戸後期】

明治初期に西側の石垣が取り払われたため、現在は東側のみ残る。1928(昭和3)年、「高輪大木戸跡」として国の史跡に指定された。写真左では「JR東日本」により「TAKANAWA GATEWAY CITY」の開発が進められている。駅名にもなっている「高輪ゲートウェイ(TAKANAWA GATEWAY)」は、「高輪大木戸」に由来している。

「赤穂義士」の墓所がある「泉岳寺」 MAP __

1612(慶長17)年、今川義元の菩提を弔うため徳川家康により「泉岳寺」が創建された。1641(寛永18)年の「寛永の大火」により外桜田から高輪に移転。その際に尽力した五大名の一つ、赤穂藩主浅野家の菩提寺となった。1701(元禄14)年、藩主浅野内匠頭は、高家旗本の吉良上野介を切りつけ切腹となり、領地も御取潰しに。翌年、浅野家の家臣47人が主君の無念を晴らすため「吉良邸」に討ち入った。討ち入り後、切腹となった家臣たちは、主君の墓がある「泉岳寺」に埋葬された。その後、この「赤穂事件」をモデルとした『忠臣蔵』が歌舞伎などで上演され、忠義を誓う義士の姿が人気となった。

写真は大正期の「泉岳寺」の「中門」。右の茶店には「ぞうに」「しるこ」の文字が見える。【画像は大正期】

年に2回、供養のための「赤穂義士祭」が行われている。2001(平成13)年、討ち入り三百年を記念し「赤穂義士記念館」が建設された。


江戸初期の芝の地形と街道

江戸初期の芝の地形と街道

江戸初期の芝の地形と街道

江戸時代に入るまで、現在の丸の内から新橋にかけての一帯には浅瀬の海が広がっていた(「日比谷入江」)。現在の銀座のあたりは砂が堆積し半島となっていた(「江戸前島」)。太田道灌が室町時代に「江戸城」を築城した頃には、「日比谷入江」は「江戸湊」として栄えたという。

徳川家康は、16世紀末の江戸入府後、城・城下町の拡充、水路・街道などの整備に取り組んだ。入府当時、江戸から西へ向かう道は、現在の「桜田通り」に近いルートであったが、1601(慶長6)年、「東海道」を五街道の一つとして定め、起点を本芝(現・港区芝四丁目付近)においた。

家康は、1602(慶長7)年頃から、全国の大名に「天下普請」を命じ、「日比谷入江」の埋め立て、「外濠」や運河の開削、「平川(日本橋川)」などの河川の付け替え、「日本橋」の架橋など、江戸の街の大改造を行った。江戸開府の翌年にあたる1604(慶長9)年、「日比谷入江」の埋め立て地及び「江戸前島」を通る形で「東海道」が延伸され、「日本橋」が起点となった。「東海道」が「外濠」(のちの「汐留川」)を渡る橋も架けられ、「新橋」と命名された。

図は現在の地形・標高を色と影で表現した「陰影段彩図」に、「地形分類図」(国土地理院作成)記載の「砂州・砂堆」(黄色横線)、「旧水部」(現在の水部も含む・青色斜線)の形状を重ねたもの。「日比谷入江」があった当時の道は入江を避けて「江戸城」に向かっていたこと、「愛宕山」の東麓には砂浜が広がり、海が近かったことなどがわかる。


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※本ページにおける「芝エリア」とは1878(明治11)年の「郡区町村編制法」によって発足した芝区の範囲、現在の港区の海岸沿いのエリアを指している。港区は1947(昭和22)年に芝区・赤坂区・麻布区の合併で誕生している。



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