京橋・銀座界隈は、江戸時代から歌舞伎や能といった芸能と関係が深い地であった。明治初期に誕生した「歌舞伎座」、大正期に誕生した「新橋演舞場」はこうした伝統を背景に誕生し発展した。大正期に入ると映画館も開業し、戦前期から戦後にかけては封切館、ニュース専門映画館など様々な映画館が誕生した。
劇場と文化
「江戸歌舞伎」と銀座・京橋の関わり
木挽町には1642(寛永19)年に「山村座」、1648(慶安元)年に「河原崎座」、1660(万治3)年に「森田座」が誕生、「木挽町三座」と呼ばれ賑わった。その後、合併などを経て、1714(正徳4)年以降は、日本橋の「中村座」「市村座」、木挽町の「森田座」が幕府から歌舞伎興行を公認され「江戸三座」と呼ばれるようになった。図は『江戸名所図会』に描かれた1834(天保5)年頃の「森田座」。「江戸三座」は1842(天保13)年から翌年にかけて、「天保の改革」の一環で猿若町(現在の台東区浅草六丁目)へ移転させられた。
木挽町時代の「森田座」があった場所は現在の中央区銀座六丁目13番付近で、「森田座跡」の説明版が建てられている。
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「歌舞伎座」の建物の変遷 MAP __
「歌舞伎座」は、「演劇改良運動」(歌舞伎を近代社会に相応しい内容に改める運動)に取り組んでいた福地源一郎が中心となり1889(明治22)年に開館した劇場。写真は第一期(初代)の建物で、外観は洋風、内部は日本風の檜づくりであった。
写真は第二期の「歌舞伎座」で、1911(明治44)年の大改築以降の撮影。丸の内に本格的な西洋式劇場である「帝国劇場」が誕生(1907(明治40)年に会社設立、1911(明治44)年に開館)したことから、「歌舞伎座」は対抗して日本の伝統的なデザインに回帰した。1914(大正3)年からは「松竹合名社」(現「松竹株式会社」)が興行を受け持つようになった。この建物は1921(大正10)年に漏電により焼失した。
「金春屋敷」と「新橋演舞場」
「金春屋敷」は、江戸時代にあった能楽の金春家の屋敷で、1780(安永9)年頃に麹町善国寺谷(現在の千代田区麹町)に移転した。地図は1657(明暦3)年に描かれた『新添江戸之図』の一部で、「金春七郎」と表記されている所が「金春屋敷」となる。ちなみに「観世三十郎」とある所(現在の銀座二丁目付近)は観世家の屋敷だったほか、金剛家は現在の銀座六丁目付近、宝生家は現在の京橋一丁目付近と、幕府直属の能楽の四家は全て銀座・京橋の町人地内に拝領し屋敷を構えていた。
幕末期の1857(安政4)年に金春流の師匠が料理茶屋などで行った芸から新橋の花柳界が始まったといわれており、「新橋芸者」は「金春芸者」とも呼ばれる。現在、「金春屋敷」の跡地周辺では「金春通り」「金春湯」などに「金春」の名を残す。写真右は「銀座金春通り煉瓦遺構の碑」で、明治期の煉瓦街の遺構が「金春屋敷」跡内で発掘されたことが記されている。
MAP __(銀座金春通り煉瓦遺構の碑)
「松坂屋銀座店」跡地一帯の再開発で2017(平成29)年に誕生した「GINZA SIX」の地下には、渋谷より観世流の能舞台が移築され「観世能楽堂」が開館し、銀座に能楽の文化が復活している。
MAP __(GINZA SIX)
新橋の花柳界は明治期に入るとその立地の良さや新政府の高官が贔屓にするなどで発展した。昭和中期に最盛期を迎え、約400名の芸者(「新橋芸者」と呼ばれる)を擁していたが、2015(平成27)年現在では約60人となっている。1925(大正14)年、「新橋芸者」の技芸を披露する場として、大阪の演舞場や京都の歌舞練場を手本に「新橋演舞場」を開業、こけら落とし公演では『東をどり』を初披露した。写真は昭和初期の「新橋演舞場」。
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戦前期に開館した映画館「銀座全線座」 MAP __
終戦翌年に開業した「テアトル銀座」 MAP __
「テアトル東京」は1981(昭和56)年に閉館、建て替えられ1987(昭和62)年に建築家・菊竹清訓(きよのり)氏設計の「銀座テアトルビル」が竣工、「セゾングループ」の「ホテル西洋銀座」、劇場の「銀座セゾン劇場」、ミニシアターの「銀座テアトル西友」が開業した。2000(平成12)年に「銀座セゾン劇場」が「ル テアトル銀座」、「銀座テアトル西友」が「銀座テアトルシネマ」に改称、さらに2007(平成19)年に劇場は「ル テアトル銀座 by PARCO」へ改称となったのち、2013(平成25)年に全ての営業が終了となった。