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「二ヶ領用水」と「中原街道」


「多摩川」を水源とした農業用水「二ヶ領用水」

「二ヶ領用水」は、江戸初期、幕府が体制作りのために開削した農業用水。「稲毛領」「川崎領」にまたがることから、「二ヶ領」と呼ばれた。徳川家康の家臣・小泉次大夫が用水奉行となり、1597(慶長2)年に測量を開始し、1611(慶長16)年に完成。用水は「多摩川」から取水された。画像は明治初期に描かれた『二ヶ領絵図』で、「稲毛領」「川崎領」を概念的に描いている。赤い線が道で、中央付近を縦に走っているのが「中原街道」。【図は明治初期】

「武蔵小杉駅」付近の「二ヶ領用水」。春には桜が咲き誇り、住民の憩いの場となっている。 MAP __

「二ヶ領用水」の完成後、取水口の増設など度々改修工事が行われた。時代の推移とともに目的にも変化が生じ、明治初期には横浜の外国人居留地の上水道として、さらに昭和戦前期には川崎沿岸部に工場地帯が形成されると工業用水道としての役割も果たすようになった。工業用水の取水口は1939(昭和14)年、鹿島田の「二ヶ領用水」が「南武鉄道」(現・JR南武線)と交差する場所付近に建設され、日本初の公営工業用水源となった。写真は1934(昭和9)年9月に発行された『川崎新聞』の一部で、工事の様子を伝えている。【画像は1934(昭和9)年】

写真は現在の取水口跡で、「二ヶ領用水」と「取水口」についての説明板が設置されている。ここで取水された工業用水は、「平間水源管理所」(写真では背面方向、現「川崎市上下水道局平間配水所」)へ送られた。 MAP __

「中原街道」沿いに造営された「小杉陣屋」と「小杉御殿」

小泉次大夫が徳川家康に「二ヶ領用水」の開削と新田開発を進言し、着工が決まると、「中原街道」沿いの小杉に陣屋が置かれた。次大夫はここで陣頭指揮を執り工事にあたっていた。「二ヶ領用水」の工事も終盤を迎えた1608(慶長13)年、徳川秀忠はこの陣屋の西側に御殿を造営。「小杉御殿」と呼ばれ、鷹狩りに訪れる将軍が度々滞在した。画像は「小杉御殿」の跡地の位置を描いた絵図で、御殿の東側に「御陣屋 や敷跡」と記されており、「小杉陣屋」であったと考えられる。【図は江戸期】

その後、「東海道」が整備されると、将軍が「中原街道」を利用する回数は減少し、1672(寛文12)年に「小杉御殿」は廃止された。写真は御殿の跡地。 MAP __

どちらの跡地も説明板が設置されており、周囲は住宅地となっている。写真は「小杉陣屋」の跡地。 MAP __

「中原街道」の「丸子の渡し」 MAP __

江戸・東京と平塚の中原を結ぶ「中原街道」には、1935(昭和10)年に「丸子橋」が開通するまで「多摩川」を渡るための橋はなく、平塚側の「上丸子村」と江戸・東京側の「下沼部村」を結ぶ「丸子の渡し」が利用され、上丸子は渡船集落として発展した。図は江戸末期に描かれた『調布玉川画図』の一部で、「上丸子村」から対岸(「下沼辺村」と表記されている)に船が出ている様子がわかる。【図は1845(弘化2)年】

「丸子の渡し」は、野菜・果物・花などを出荷する手車や牛車も利用していた。写真は1932(昭和7)年の「丸子の渡し」。船の両端に船頭の姿が見られる。土手の向こうに見える鉄塔は目黒蒲田電鉄(現・東急多摩川線)。【画像は1932(昭和7)年】

「丸子の渡し」は「丸子橋」(写真左手)が架橋されたことで廃止された。「丸子橋」付近には「丸子の渡船場跡」の碑(写真手前)が設置されているが、廃止される頃に渡船場があった場所は、この碑より300mほど南東になる。 MAP __(丸子の渡船場跡の碑)

「丸子橋」の架橋 MAP __

丸子の渡し」があった「多摩川」の約300m上流に1935(昭和10)年、住民による度重なる陳情が実現し、アーチ橋の「丸子橋」が開通した。この橋には東京と神奈川を結ぶ重要な交通ルート「中原街道」が通り、費用は東京と神奈川で折半した。画像は1935(昭和10)年頃、東京側から神奈川側を望んだ様子。【画像は1935(昭和10)年頃】

老朽化と交通量の増加に対応するため、2000(平成12)年に現在の橋に架け替えられた。車道は2車線から4車線、歩道も片側から両側歩道となり、より安全で快適に橋を渡ることができるようになった。

大正期から昭和前期に行われた「多摩川改修工事」

地形図は明治後期の上丸子付近。右下に「丸子ノ渡」の文字が見られる。「多摩川」の沿川(えんせん)では1918(大正7)年から1933(昭和8)年にかけて「多摩川改修工事」が行われ、図中の上丸子・青木根の集落の一部は移転となった。【地形図は明治後期】

同地域の1941(昭和16)年撮影の空中写真。流路の変更、堤防の整備が行われ、河川敷は大幅に広げられたことがわかる。写真左上の河川敷には「多摩川スピードウェイ」の円周コースも確認できる。「多摩川スピードウェイ」のすぐ南東側(写真では右下)の橋は東京横浜電鉄(現・東急)東横線の「多摩川橋梁」、さらに南側の橋が「丸子橋」となる。【画像は1941(昭和16)年】


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