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「甲州街道」沿いに発展した街


「上布田宿」と「布多天神社」 MAP 1(上布田宿 中沢商店付近)

写真は1910(明治43)年12月、「連合売出」で賑わう「甲州街道」の「上布田(かみふだ)宿」の様子。近郷在住の人々はこの「連合売出」で正月支度を整えたという。【画像は1910(明治43)年】

写真は現在の調布市布田一丁目21番付近。明治期の写真の左側に見える「中沢商店」は現在も「なかざわ文具店」として、同じ場所で営業している。

「布多天神社(ふだてんじんじゃ)」は第11代垂仁天皇の御代(約1,940年前)の頃の創建といわれ、927(延長5)年の『延喜式神名帳』にも記載される由緒ある神社。当初は、現在の「古天神(ふるてんじん)公園」(調布市布田五丁目)付近にあったが、室町時代の1477(文明9)年に「多摩川」の洪水を避けるため現在地に移転、この時から菅原道真公も祀られるようになったという。江戸時代に「甲州街道」が作られると「布田五宿」の総鎮守となった。「調布」という言葉は、律令制時代の租税の一つ「調」として納めた手織りの布のことで、『万葉集』の「多摩川」を詠んだ東歌にも「てつくり」と詠まれて登場する。その後も詠い継がれ、「調布(ちょうふ)玉川」として「多摩川」の歌枕となり、江戸時代には浮世絵の題材などにも取り上げられた。地名としての「調布」は、江戸時代後期の文化・文政期に記された『新編武蔵風土記稿 巻之93』において「布多天神社」周辺を『武州調布の里といへり』という言い伝えがあることが記述されている。1889(明治22)年には「布田五宿」などの合併による「調布町」の誕生で、初めて公式な地名となった。
MAP 2(布多天神社) MAP 3(古天神公園)

画像は江戸時代後期の『江戸名所図会』に描かれたもので「天神」(青囲み部分)が「布多天神社」。「別當」(赤囲み部分)とあるのは「栄法寺」で、1871(明治4)年には「布田郷学校」も置かれた。「栄法寺」は1914(大正3)年に周辺の二寺と合併、創建時の年号から「大正寺」となった。旧「栄法寺」は現在の「大正寺墓地」の所にあった。1959(昭和34)年から2015(平成27)年に逝去するまで調布市に暮らした漫画家、水木しげる氏の作品『墓場鬼太郎』(のち『ゲゲゲの鬼太郎』)の主役・鬼太郎は、「布多天神社」の奥の雑木林に住んでいるという設定。現在、境内では「ゲゲゲの鬼太郎おみくじ」を引くことができるほか、表参道の「天神通り商店会」に妖怪達のモニュメントを見ることができる。【画像は江戸後期】

「甲州街道」の「滝坂」付近 MAP 4(旧道) MAP 5(新道)

写真は1920(大正9)年、初荷を運ぶ馬車。「入間(いりま)川」と「甲州街道」が交差するあたりから仙川方面を撮影したもの。この先に「滝坂」(「国分寺崖線」の一部)があり、奥に見える台地上へ登っていく。「滝坂」は、その名の通り、大雨が降ると滝のように雨水が流れたという。街道の難所として知られ、明治天皇が「多摩川」への行幸の際、落馬されそうになったことから、なだらかにする改良が行われた。大正天皇の崩御後、「多摩御陵」が造営された際に新道が建設され、1927(昭和2)年に開通した。「京王電軌」は、1916(大正5)年から神代(じんだい)村に電気の供給を開始しており、写真には電柱も写っている。【画像は1920(大正9)年】

現在の調布市東つつじケ丘一丁目16番付近。旧道の「滝坂」の周辺には旧家が残り、往時の面影を残している。1927(昭和2)年に開通した新道は、1964(昭和39)年4月に「東京オリンピック」開催のため、現在の道幅に拡幅された。写真の左側が旧道、右側が新道の「滝坂」。

「深大寺」と「深大寺そば」 MAP 6

「深大寺」は、奈良時代の733(天平5)年、満功上人(まんくうしょうにん)が父母の恋を叶えた水神「深沙(じんじゃ)大王」を祀るために開山したといわれる。寺の縁起によれば、貞観年中の860年頃、「武蔵国司蔵宗(くらむね)の乱」がおこると、朝廷は降伏を祈念するため、「比叡山」の高僧・恵亮(えりょう)和尚をこの寺に派遣。乱が収まると、和尚へ「深大寺」が与えられ、天台宗に改宗され現在に至っている。釈迦堂に奉安される「白鳳釈迦如来倚像」(現在は「銅造釈迦如来倚像」と呼ばれる)は、東国有数の古仏として有名。1913(大正2)年に旧国宝、その後重要文化財の指定を経て、2017(平成29)年に新たに国宝に指定されている。【画像は大正~昭和戦前期】

江戸時代、「深大寺」周辺の土地は米の生産に向かないことから、代わりにそば粉が寺に納められたため、寺ではそばを打って来客をもてなしたというのが、「深大寺そば」の始まりと伝えられている。その後「深大寺」の名物となり、江戸時代後期の『江戸名所図会』にも描かれた。上野「寛永寺」の門主に献上された記録が残るほか、徳川将軍家にも献上されたといわれている。【画像は江戸後期】

東京では「浅草寺」に次ぐ歴史を持つ古刹で縁結びの寺としても有名。毎年3月3日、4日に行われる「厄除元三大師大祭」は「深大寺」の最大の行事。あわせて境内では「日本三大だるま市」の一つといわれる「縁起だるま市」も開かれる。

「深大寺」は「武蔵野台地」の段丘崖「国分寺崖線」(「ハケ」と呼ばれる)につながる谷戸の崖線上に位置し、かつては豊かな湧水が見られた。「武蔵野台地」で栽培されたそばの実と、「ハケ」からの湧水によって、「深大寺そば」は生みだされた。写真は門前を流れる湧水のせせらぎと、そばなどを提供する茶屋。


「甲州街道」の宿場町

江戸幕府によって整備された五街道の一つである「甲州街道」。「江戸城」と「甲府城」を結ぶ軍事目的もあり、「江戸城」に危機が及んだときの徳川将軍家の避難路だったともいわれる。江戸時代前期の寛永期以降、宇治の新茶を、「江戸城」に運ぶ大行列「御茶壷道中」にも利用された。「東海道」の道中より湿気が少なく、また夏の間、冷涼な「谷村(やむら)藩」の「勝山城」(現・山梨県都留市)に保管したこともあり、「中山道」経由で「甲州街道」が主に利用されたが、1690(元禄3)年以降は「勝山城」での保管を廃止、「東海道」経由となったと考えられている。八代将軍徳川吉宗の「享保の改革」では、1724(享保9)年に「甲府藩」を廃止し天領とし、「甲府勤番」などを置いたため、役人の通行や物資の輸送が増加した。「甲州街道」を参勤交代で利用したのは、信州の「高遠藩」「高島藩」「飯田藩」の三藩のみと少なかった。

起点の「日本橋」から最初の宿場として「高井戸宿」が置かれた。「甲州街道」沿いは小さな村も多く、一宿だけで宿場運営を負担できない場合は、合宿(あいじゅく)として期間ごとに複数の宿場が交替で業務を行った。「高井戸宿」は「上高井戸宿」と「下高井戸宿」の合宿で、1698(元禄11)年に「日本橋」との間に「内藤新宿」(現在の新宿)が置かれると次第に衰退した。 MAP 7(上高井戸宿跡) MAP 8(下高井戸宿跡)

「布田五宿」は「高井戸宿」と「府中宿」の間に置かれた合宿で、「国領宿」「下布田宿」「上布田宿」「下石原宿」「上石原宿」で構成された。これらの村の集落はもともと南方の「多摩川」寄りにあったが、宿場を開く際に街道沿いに移住させられたという。本陣・脇本陣は置かれず、宿場としての規模は小さかった。 MAP 9(国領宿跡) MAP 10(下布田宿跡) MAP 11(上布田宿跡) MAP 12(下石原宿跡) MAP 13(上石原宿跡)

現在の「国領駅」の北西にある、「高津装飾美術」の場所には、かつて「塚善」という料亭があった。大正時代には多摩川原に支店を設け、鮎漁見学の屋形船も出していた。画像は大正~昭和初期の撮影。

現在の「国領駅」の北西にある、「高津装飾美術」の場所には、かつて「塚善」という料亭があった。大正時代には多摩川原に支店を設け、鮎漁見学の屋形船も出していた。画像は大正~昭和初期の撮影。 MAP 14(塚善本店跡)

江戸時代中期以降、江戸の消費経済が発達すると、多摩や甲州・信州から江戸への流通の道として重要性を増し、また、「富士講」「身延講」が江戸で流行、参詣客でも賑わうようになった。幕末の1865(慶応元)年、幕府は「布田五宿」に「長州征伐」費用五千両の献金を求め、代わりに歓楽的な旅籠屋を公式に認めた。現在、「布田駅」近くの旧街道沿いにある「常性寺」の境内には、1878(明治11)年に敷石を寄付した「布田五宿」の貸座敷業20名を記載した碑も見られ、当時、この地域の歓楽地的な繁栄があったことも窺える。 MAP 15(常性寺)


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※「甲州街道」は江戸時代は「甲州海道」「甲州道中」と呼ばれたが、本ページでは「甲州街道」で統一している。
※「京王電気軌道」(現「京王電鉄」)は、戦前は会社名を「京王電軌」、路線名を「京王電車」と呼ぶのが一般的であり、本ページでもそれに倣っている。また、1945(昭和20)年に「地方鉄道法」(のち「鉄道事業法」)に変更されるまで、「軌道条例」(のち「軌道法」)による電気軌道であったため、駅名の表記は、正式には「停留場」であるが、本ページでは便宜上「駅」で統一している。



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