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近世までの歴史


牛込総鎮守の「赤城神社」 MAP __

鎌倉時代の1300(正安2)年、「赤城山」の山麓、大胡(現・群馬県前橋市)の豪族、大胡重治が牛込に移住した際、故郷の「赤城神社」を、現在の「元赤城神社」の場所(現・新宿区早稲田鶴巻町)に勧請したのが始まりといわれる。1460(寛正元)年には太田道灌により牛込台へ、さらに1555(弘治元)年に現在地へ遷座され、江戸期の1683(天和3)年、幕府は牛込の総鎮守とした。江戸期までは「赤城明神社」と呼ばれていたが、1868(明治元)年に社号が「赤城神社」へ改められた。写真は明治後期~大正期の表門。奥の社殿は1945(昭和20)年、戦災により焼失した。
MAP __(元赤城神社)【画像は明治後期~大正期】

戦後、1951(昭和26)年に本殿が再建された。さらに、2009(平成21)年から翌年にかけて氏子でもある建築家・隈研吾氏がデザイン監修した「赤城神社再生プロジェクト」の工事が行われ、社殿の建替え、神楽殿の復興などが行われたほか、境内地に定期借地権のマンションも建設された。現在では「日本一おしゃれな神社」とも評され、多くの参拝客で賑わっている。

四谷総鎮守の「須賀神社」 MAP __

江戸初期に江戸中心部にあった寺社の多くは、「江戸城」の「外濠」の建設を契機に周辺部へ移転となった。四谷においては、1634(寛永11)年に麹町清水谷にあった「西念寺」「安禅寺」などが南寺町、北寺町へ移転してきている。一ツ木村(現・赤坂の一部)の鎮守であった稲荷社も同年に麹町清水谷から四谷南寺町付近へ移転。1637(寛永14)年、「神田明神」の摂社に祀られていた日本橋大伝馬町の鎮守、牛頭天王(スサノオと習合)を合祀し「四谷天王社」と呼ばれるようになっていたが、1868(明治元)年の神仏分離により社号を「須賀神社」へ改めた。「須賀」とはスサノオがヤマタノオロチを退治した際「心須賀須賀(すがすが)し」と言った故事に基づく。写真の拝殿は1828(文政11)年に竣工したものだったが、1945(昭和20)年、戦災により焼失した。【画像は昭和戦前期】

「須賀神社」の本殿御内陣は1819(文政2)年に造営されたもので、1989(平成元)年に大修復工事が完了している。毎年11月の酉の日には、1864(元治元)年より始まった「四谷酉の市」(写真)が開かれている。2016(平成28)年に公開されたアニメ映画『君の名は。』のラストシーンでは神社前の階段が登場しており、アニメの聖地巡礼で訪れる人も多い。

「江戸城」の見附 MAP __(牛込見附)

「江戸城」の「外濠」は、全国の大名を動員した「天下普請」により、3代将軍徳川家光の時、1634(寛永11)年から1636(寛永13)年にかけて造られた。「江戸城」には多くの見附(見張り番所)が置かれたが、その中でも主なものが「三十六見附」と呼ばれた。四谷・牛込地区においては「外濠」を渡る部分となる、現在の「四ッ谷駅」付近に「四谷見附」、「市ヶ谷駅」付近に「市谷見附」、「飯田橋駅」付近に「牛込見附」が置かれた。「牛込見附」は「牛込御門」とも呼ばれ、「外濠」の建設とともに築造されていたが、1902(明治35)年、石垣の一部を残し撤去された。

写真は1931(昭和6)年頃撮影の「牛込見附」。「牛込濠」(「外濠」のこのあたりの名称)には、1918(大正7)年、東京で最古のボート場「東京水上倶楽部」が開業し憩いの場となった。写真にもボートを楽しむ人が写っている。中央に見える大きな橋は「牛込橋」。その下に見える小さな橋は、神楽坂方面から「牛込駅」へアクセスするために架けられていた。【画像は1931(昭和6)年頃】

現在も「牛込御門」の石垣の一部は残されている。「東京水上倶楽部」は「カナルカフェ」として、貸しボートのほか、カフェ・レストランの営業も行っている。
MAP __(カナルカフェ)

歌川廣重により描かれた「どんどん」 MAP __

江戸時代、「外濠」のうち、「飯田濠」の「牛込御門」下までは「神田川」方面から船が入ることができた。現在の「飯田橋セントラルプラザ ラムラ」付近には武家のための「揚場河岸」が造られ、町名も揚場町となっていた。図は天保年間(1830~1844年)後期に、歌川廣重により描かれた団扇絵『どんどんノ図』。「どんどん」とは堰の落とし口のことで、図のように「牛込御門」(左奥の屋根がある門)の下に設けられていたため、これより先には船が入れなかった。【図は江戸末期】

「飯田濠」は「飯田橋地区第一種市街地再開発事業」により1972(昭和47)年から翌年にかけて埋立てられ、1984(昭和59)年にオフィス・ショップなどからなる複合施設「飯田橋セントラルプラザ ラムラ」が完成した。写真は現在の「ラムラ」(左の建物)付近の様子。「ラムラ」は、かつての「飯田濠」の上に建てられており、館内に新宿区と千代田区の境界線が通っているため、区境を示すプレートが設置されているほか、「区境ホール」と命名されたホールもある。

架空の町が造られた「戸山荘」

現在の「都立戸山公園 箱根山地区」一帯は、江戸時代には尾張徳川家の下屋敷であった。2代藩主光友により、1669(寛文9)年から工事が始められ、広大な敷地に風趣ある庭園が造られた。「戸山荘」「戸山御庭」などと呼ばれ、水戸徳川家の「後楽園」と並ぶ名園に。6代藩主宗春の頃には「東海道」を模して宿場町や渡船、山道などが再現され、小川を「大井川」、築山「玉円峰」を「箱根山」に見立てるなど、現在のテーマパークのように、園内で旅の気分が味わえるような趣向が凝らされていた。図は文政期(1818~1831年)以降に描かれた『尾州公外山園荘之図』。左の家が連なる部分が宿場町、中央の桜の右に築山の「玉円峰」(現「箱根山」)が描かれている。【図は江戸後期~末期】

しかし、幕末期の「安政の大地震」や台風、火災などで荒廃していき、「明治維新」後、「陸軍戸山学校」の敷地となった。戦後、米軍の接収・返還ののち、1954(昭和29)年、敷地の一部が「都立戸山公園」として開園した。写真は現在の「箱根山」。標高は44.6mあり、旧・東京市で一番高い山であった。
MAP __(箱根山)

宿場町は「小田原宿」を模したもので、1815(文化12)年の時点では、町家が36軒あり、長さは75間(約136m)にわたって造られていた。図は1793(寛政5)年に描かれた『尾張公戸山庭園』の写しのうちの一部、宿場町付近で、入口には冠木門や高札なども描かれている。「古駅楼」とある建物は小田原の「虎屋外郎」(現「ういろう」)を模した建物で、ここでは本陣に見立てて使われていた。「戸山荘」には徳川将軍も訪れており、特に11代将軍家斉が気に入っていたという。武士が宿場で町人になりきって遊んでいると思われる様子が描かれた図も残っている。【図は江戸後期】

写真は「尾張徳川家戸山荘古駅楼跡」の標柱。「新宿区立戸山シニア活動館」前の公園(「都立戸山公園」の一部)に建てられており、このあたりに宿場町が造られていたことがわかる。
MAP __(標柱)


近世から明治期の四谷・牛込

『四ツ谷絵図』

1850(嘉永3)年出版の『増補改正千駄ヶ谷鮫ヶ橋四ツ谷絵図』の四谷付近。【図は江戸末期】

「甲州街道」は、江戸期に幕府によって整備された五街道の一つ。「江戸城」の「半蔵門」から西へ延び、将軍の避難路の役目も想定し造成されたといわれ、沿道には防御のために寺院や同心屋敷が置かれた。「甲州街道」は「半蔵門」を出るとすぐに町人地の麹町となり、街道に沿って一丁目から十三丁目まで連なっていた。「外濠」の普請により「四谷見附」で分断される形となり、「外濠」の内側の十丁目までが、のちに麹町区域(現・千代田区)、外側の十一丁目から十三丁目は、のちに四谷区域(現・新宿区)となった。

江戸期の四谷地区において、「甲州街道」沿いは、麹町十一丁目から十三丁目をはじめ、その延長となる伝馬町、忍町、塩町が町人地として置かれ、商店などで賑わった。町人地の先には武士の屋敷が建ち並んでいたが、大名屋敷は少なく、中下級武士の住居や大縄地(集合住宅)が多かった。牛込地区は、中下級武士の住居や大縄地が多かった点は四谷地区と同じであるが、大きな敷地を持つ大名屋敷も多くあった。また、神楽坂は「上州道」(「江戸城」の「田安門」を起点として「牛込見附」を経て上州へ向かう道)沿いの町人地として発展している。

明治期・大正期となっても、四谷・神楽坂は山手で有数の盛り場として賑わう地域であった。しかし、「関東大震災」の復興期となる大正末期以降、東京の西郊の住宅地に移り住む人が増加すると、「新宿駅」は乗換え駅として賑わうようになり、1927(昭和2)年には日本一の乗降客数を誇るまでに発展。「新宿駅」周辺が商業地として大きく成長する陰で、四谷・神楽坂の商業は衰退していった。四谷から新宿へ進出を図る商店も見られたが、倒産した店も多かったという。

明治期に入ると、新政府は東京にあった広大な大名屋敷の土地・建物を上地(収用)し、政府機関などが利用した。牛込地区においては「陸軍士官学校」をはじめ、多くの陸軍施設が誕生したほか、学校、病院、監獄などの大規模な公共施設も造られた。



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※本ページでは現在の東京都新宿区のうち、旧四谷区(内藤新宿町を除く)・旧牛込区を対象としている。



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