1909(明治42)年発行の地図の「番町」部分。青字は町名、赤字は江戸期の通り名・町名。
【図は1909(明治42)年発行】
江戸幕府では、旗本の内、文官は「役方」、武官は「番方」と呼ばれた。その「番方」の中でも「大番」は「江戸城」や江戸市中の警備などを担っていた。徳川家康の「関東入国」前までに「大番組」は6組編成されており、「関東入国」後、「一番組」から「六番組」までの屋敷地が「江戸城」北西側に設けられ、「一番町」から「六番町」と呼ばれるようになった。町名の数字は各番組を表しているもので、一から順に規則的に並んでいるわけではなかった。明治期に入って正式な町名となった際、概ね、江戸期の通称を引き継いだ。図は、1909(明治42)年発行の地図の「番町」部分。江戸期に「三番町」「四番町」と呼ばれた地域は、「靖國神社」のあたりまであり、明治期の町域より広かった。
『土地区画整理区域内外町界町名整理図』。
【図は1926(大正15)年発行】
「関東大震災」後の復興時、東京市の中心部では区画整理とともに、市内に1,500以上もあった町名も整理されることになった。「復興局」(震災復興を担った「内務省」の外局)は、「町界町名地番整理案」の懸賞を行い、市民の意見を募った上で、整理案を1925(大正14)年に作成・決定し、東京市へ送った。『土地区画整理区域内外町界町名整理図』はこのときの「復興局」決定案で、図はその「番町」付近。不規則に並び、わかりにくかった町名が、この案では規則的に整理されている。その後、東京市はこの案を参考に、地元住民の希望を踏まえ最終的な町界・町名を決定しており、現在の「番町」は、この図の時点での町名の並び順や町界とは異なっている。
1944(昭和19)年の「番町」一帯の地図。
【図は1944(昭和19)年発行】
1933(昭和8)年、旧「三番町」と旧「四番町」は「九段」に変更され、旧「一番町」は「三番町」となった。さらに、1938(昭和13)年、旧「五番町」などが「一番町」、旧「下二番町」が「二番町」、旧「中六番町」が「四番町」、旧「土手三番町」が「五番町」、旧「下六番町」が「六番町」となり、この時、概ね現在の「一番町」から「六番町」の町名・町界となった。図は「番町」一帯が現在の町名に変更された後となる、1944(昭和19)年作成の地図。