『果樹栽培全書 第四』 1896年 福羽逸人 国立国会図書館蔵
福羽逸人は、全国各地の果樹の栽培に大きな功績を残しているが、特に日本における西洋イチゴの栽培への貢献でも知られている。明治期に入ると、日本では西洋イチゴ栽培の導入が試みられるようになったが、苗の輸入中に枯れるなど、うまく育たなかったという。こうした中、福羽は種子を取り寄せ「植物御苑」で実生・改良を重ね、1898(明治31)年、新品種「福羽イチゴ」を作出した。当初は皇室献上用で門外不出であったが、1919(大正8)年に一般に栽培が許可されると全国に普及した。現在日本で栽培される「女峰」「とよのか」「とちおとめ」「あまおう」などの品種は「福羽イチゴ」をルーツに品種改良が重ねられたものとなっている。
マスクメロンの栽培は、1893(明治26)年頃、福羽が種子を輸入し「植物御苑」の温室で試作したことに始まり、大正期頃に栽培方法が確立した。新宿の果物の専門店「高野」の二代目・髙野吉太郎は、1919(大正8)年、早くもマスクメロンの販売を開始している。明治後期以降、贈答に果物を用いることが流行したといわれるが、最高級の果実といえるマスクメロンを扱うことは、時代の趨勢を読んだものであった。翌1920(大正9)年には日本初のマスクメロン品評会が開催され、「早稲田大学」の創設者・大隈重信が栽培・命名した新品種「早稲田」が一等賞を獲得し新聞などで話題となっている。大隈は園芸愛好家でもあり、自宅には本格的な温室を持っていた。福羽と大隈は園芸を通じて交友が深く、福羽は栽培の指導も行っていた。
1926(大正15)年、「高野」は店舗を洋風建築に改装し、果物が主役の喫茶店「フルーツパーラー」を開店した。「フルーツパーラー」の流行とともに、マスクメロンをはじめとする高級果実は人々に広く認知されていった。