このまちアーカイブス INDEX

戦後の新宿、焦土のなかからの再出発

「太平洋戦争」末期の「東京大空襲」では新宿も被害を受けたが、急速に復興を遂げ、歌舞伎町などの繁華街も新たに形成された。


戦後の復興計画で整備された「歌舞伎町」 MAP __

空襲で新宿一帯は焦土と化したが、終戦わずか4日後の1945(昭和20)年8月19日には地元(当時の角筈一丁目北町、現在は歌舞伎町の一部)の町会長・鈴木喜兵衛氏が復興計画に着手、8月23日には町会員に趣意書を送った。その後、民間主導の戦災復興事業へと発展、歌舞伎劇場の「菊座」や映画館、演芸場、ダンスホールなどから成る興行街を中心とした計画が立てられた。歌舞伎劇場の誘致を目指していたことから「歌舞伎町」への町名変更の手続きも行われ、1948(昭和23)年4月に実現している。この区画整理を理想的なアミューズメントセンターとするべく指導し、また「歌舞伎町」と命名したのは、当時の東京都都市計画課長・石川栄耀(ひであき)氏だった。しかしながら、建築規制や預金封鎖により、「菊座」の開設は頓挫、ほかの娯楽施設も建設が中止となり、すでに着工されていた映画館「地球座」のみが建設された。

写真は1958(昭和33)年頃の歌舞伎町。写真中央が「新宿コマ劇場」。【画像は1958(昭和33)年頃】

現在の歌舞伎町の街並み。日本有数の繁華街として知られ、飲食店などが入った雑居ビルがひしめきあう。

「歌舞伎町」の建設に弾みをつけた博覧会

1950(昭和25)年には歌舞伎町地区をメイン会場として「東京産業文化博覧会」が開催された。娯楽施設の建設が中断されていた敷地にパビリオンを建て、会期後に転用する目論みもあったという。博覧会は興行的には失敗に終わったが、博覧会開催による知名度の向上や建築規制の撤廃もあり、街の開発は再び動きはじめることとなる。

写真は「東京産業文化博覧会」の様子。階段の奥には「児童館」や巨大な恐竜模型などが展示されている。この場所は現在「新宿東宝ビル」となっている。左の建物は「婦人館」で、のちに「新宿劇場」となり、現在は「ヒューマックスパビリオン新宿歌舞伎町」。階段手前の空間は「歌舞伎町シネシティ広場」として残る。

写真は現在の「歌舞伎町シネシティ広場」付近の様子。
MAP __

写真は1952(昭和27)年にオープンした「東京スケートリンク」。この建物は「東京産業文化博覧会」の時は「産業館」であった。飛行機の格納庫を移築した巨大な建物で、博覧会の計画時から終了後の転用(当初はハイアライの競技場)を予定していた。1956(昭和31)年に「新宿東急文化会館」へ建て替えられ、その中の一施設となった。1967(昭和42)年、「東京スケートリンク」は閉鎖されボウリング場「新宿ミラノボウル」となり、1996(平成8)年、「新宿東急文化会館」は「新宿TOKYU MILANO」へ改称された。

「新宿TOKYU MILANO」は再開発のため2014(平成26)年に閉鎖となり、2023(令和5)年、跡地に「東急歌舞伎町タワー」が開業した。
MAP __

歌舞伎町のシンボルとして誕生した「新宿コマ劇場」 MAP __

歌舞伎町の建設計画には、家族連れで楽しめる文化的アミューズメント施設の建設が盛りこまれていた。歌舞伎劇場の計画は頓挫したが、当初、歌舞伎劇場を予定していた場所に、1956(昭和31)年、「新宿コマ劇場」が開業した。当初は「新宿コマ・スタジアム」とも呼ばれた。「コマ」の名は、舞台全体がコマのように回転する仕掛けに由来する。【画像は1957(昭和32)年】

「新宿コマ劇場」は業績悪化や施設の老朽化を理由に2008(平成20)年に閉館となった。跡地では再開発が行われ、2015(平成27)年に「新宿東宝ビル」が開業した。この場所一帯には、戦時中まで「東京府立第五高等女学校」(現在の「東京都立富士高等学校・附属中学校」の前身)があったが、空襲で被災、戦後中野区へ移転した。

新宿で誕生した歌声喫茶

1954(昭和29)年、「西武新宿駅」前の食堂で、人々が歌を口ずさんだことがきっかけとなり、歌声喫茶「灯(ともしび)」が誕生した。歌声喫茶は、ステージリーダーと一緒に集った人々が歌うスタイルで、東京をはじめ、全国で大流行となった。最盛期には都内に20軒もの歌声喫茶があったという。1970年代に入ると歌声喫茶は衰退を見せ、「灯」は1977(昭和52)年に閉店となった。元従業員たちが伝統を引き継いでいた「ともしび 新宿店」は2020(令和2)年に閉店となったが、2022(令和4)年に高田馬場で営業を再開している。【画像は1960年代】


戦後、ヤミ市の時代の面影を色濃く残す「新宿ゴールデン街」 MAP __

新宿の大通り上に見られた露店

写真は新宿の大通り上に見られた露店。1949(昭和24)年に「GHQ」は東京の「露店整理」を指示、新宿の露店の多くは、1951(昭和26)年に開業した「新宿サービスセンター」(現「伊勢丹 新宿店 メンズ館」の場所)へ移転した。
【画像は昭和20年代】

米軍による「東京大空襲」によって1945(昭和20)年、東京の市街地は焼け野原となった。もちろん、新宿も例外ではなかった。やがて「新宿駅」周辺には、自然発生的にヤミ市や露店商が軒を連ねはじめた。その後、ヤミ市や露店は整理されていくが、「新宿ゴールデン街」「新宿西口思い出横丁」「新宿センター街」のように、新宿には今もなお、戦後の面影を残すエリアを見ることができる。


1968(昭和43)年の様子

1968(昭和43)年の様子。中央に見える都電の専用軌道の右側に広がるのが「新宿ゴールデン街」。
【画像は1968(昭和43)年】

1949(昭和24)年以降、新宿二丁目や駅の東口にあった露店商が移転したのが、現在の「新宿ゴールデン街」のはじまり。高度成長期にかけて、「新宿ゴールデン街」の飲食店は作家や映画監督などの文化人が集う、新宿文化の中心地となった。バブル経済の時代には、「東京都庁舎」の建設に合わせて、この一帯にも再開発計画が持ち上がったこともあったが、店主らが協力して守り抜いた。2,000坪ほどの狭い区画に低層の木造長屋が連なり、280軒以上が密集する飲食店街となっている。近年は、その独特の街並みが外国人観光客にも人気で、世界に知られる観光スポットとなった。


次のページ 江戸・東京を支えた「玉川上水」


MAP

この地図を大きく表示



トップへ戻る