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江戸・東京の生活を支えた「玉川上水」と「淀橋浄水場」

江戸の住民に生活用水を供給していた「玉川上水」は、四ツ谷大木戸から江戸各所へ分配されていた。明治に入り衛生的な問題から、新水路を築造、新宿西側の淀橋に浄水場が建設された。


江戸時代を通じて人々の喉を潤し、生活用水に使われた「玉川上水」

「玉川上水」は、1653(承応2)年4月4日に着工し、11月15日に完成した。当時、江戸の人口増加により1629(寛永6)年頃に完成していた「神田上水」などでは水の供給が足りなくなっていたため、開発が進められた。「玉川上水」は「武蔵野台地」の尾根を流しているため分水が可能であり、水の乏しい「武蔵野台地」上の開発にも大きな役割を果たした。【画像は1856(安政3)年】

近代的な水道施設「淀橋浄水場」

近代的な浄水場の建設を決めた政府は、高低差を利用して市街地に配水が可能な淀橋に白羽の矢を立てた。委員会設置から5年後の1893(明治26)年に起工式が行われ、1898(明治31)年に完成。翌年には東京市内全域で利用できるようになった。「淀橋浄水場」の完成による上水道の整備は、東京の衛生環境を大きく改善した。【画像は大正期】

浄水場に水を運んだ明治時代の新水路 MAP __

「淀橋浄水場」が完成した翌年の1899(明治32)年、「玉川上水」から浄水場へと繋がる新水路が竣工した。水深は10cm程度と浅く、子どもたちの遊び場として親しまれていたという。ところが、1921(大正10)年の地震で新水路の一部が決壊、1923(大正12)年の「関東大震災」でさらに大規模な決壊があったため、1937(昭和12)年に新しい導水管の完成に伴って廃止された。【画像は1924(大正13)年】

新水路跡に整備された「東京都道431号角筈和泉町線」は、「水道道路」と呼ばれている。

高層ビル街に変わる前の「淀橋浄水場」の全景 MAP __

写真は、昭和中期に撮影された「淀橋浄水場」の様子。1960(昭和35)年に「新宿副都心計画」が都市計画決定されると、「淀橋浄水場」の機能は「東村山浄水場」に移されることになり、1965(昭和40)年3月31日、その歴史に幕を下ろした。その後、広大な浄水場の跡地は、高層ビル街へと変貌を遂げた。現在の西新宿は、浄水場の貯水池の高低差を活かした立体的な街となっている。【画像は昭和中期】


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