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「新宿御苑」の変遷

現在、都市のオアシスとして親しまれている「新宿御苑」は、江戸時代には信州高遠藩内藤家の下屋敷の敷地であった。明治維新を経て、現在の姿になるまでの変遷をたどる。


家康から拝領した信州高遠藩の庭園跡 MAP __

江戸幕府が開かれる前の1590(天正18)年、内藤家は徳川家康から約20万坪(約66ha)に及ぶ広大な土地を拝領したとされる。この地は江戸の西の入口にあたり、内藤家は土地を与えられる代わりに、防御の要の見張りを命じられた。その後、宿場町「内藤新宿」の開設にあたり、幕府に一部の土地を返上するなど、「明治維新」のころには往時の半分以下の土地になっていたという。写真は1934(昭和9)年に撮影された「玉藻池」。1772(安永元)年、内藤家の庭園として完成した「玉川園」の一部で、「玉川上水」の余水も利用しており、「渋谷川」の水源の一つにもなっていた。【画像は1934(昭和9)年】

現在、約18万坪(約58.3ha)の広さのある園内では、四季折々の風景を楽しむことができる。「大木戸門」付近には内藤家の庭園の面影が残されている。

「内藤新宿試験場」から「新宿御苑」へ

1872(明治5)年、政府は内藤家が上納した土地一帯に「内藤新宿試験場」を整備、約58.3haの広大な農場において、欧米型の近代的な農業を導入するための試験が行われた。のちに「新宿御苑」の誕生に尽力する福羽逸人(ふくばはやと)は、1875(明治8)年、19歳の時に「内藤新宿試験所」の実習生となり、関りを持つようになった。1874(明治7)年には「農事修学所」も設置され、1877(明治10)年に駒場へ移転、「東京大学農学部」の前身の一つとなっている。

1879(明治12)年、「内藤新宿試験場」は「宮内省」所管の「新宿御料地」となり、皇室のための農園「植物御苑」のほか鴨場「新宿御猟場」なども置かれた。「植物御苑」でも引き続き、果樹、野菜、花などの栽培技術の研究は進められた。福羽逸人は1891(明治24)年に技師に任命されると本格的な蔬菜園(野菜園)を設け促成栽培などを試みた。1898(明治31)年には責任者に任命され、国内外の賓客へ日本の文化や自然の魅力を紹介する皇室庭園(パレスガーデン)の重要性を説き、1900(明治33)年に「パリ万博」の出張でフランスを訪れた際、「ヴェルサイユ園芸学校」の教授、アンリ・マルチネーに「植物御苑」を皇室庭園に改造する計画を依頼。1902(明治35)年から大規模な改修工事が行われ、1906(明治39)年に完成し「新宿御苑」へ改称。「日露戦争」の戦勝祝賀を兼ねた開苑式が明治天皇のご臨席のもとに催された。

戦後は国民公園として運営されることになり、1949(昭和24)年、「国民公園新宿御苑」として一般に開放された。

1875(明治8)年には無加温の温室が完成、日本の西洋温室の先駆けとなり、「宮内省」所管後は宮中で用いられる野菜や果物、花卉なども栽培された。1892(明治25)年~1897(明治30)年頃にかけて加温式の洋風温室も建築され、近代的な促成栽培の研究が進められた。また、洋ランの交配種の開発も行われ、1906(明治39)年に作出された「カトレヤ・シンジュク」をはじめ、「シンジュク」「フクバ」の名を冠した独自品種も生み出された。写真は1908(明治41)年、「御休所(ごきゅうしょ)」前付近から撮影した温室。「御休所」は1896(明治29)年に温室附属の休憩施設として建設された建物で、現在「新宿御苑」内に残る唯一の明治期の建築として2001(平成13)年に国の重要文化財に指定された。
MAP __【画像は1908(明治41)年】

戦時中の空襲で園内はほぼ全焼となり、温室や植物も多くが焼失となったが、わずかに残った洋ランなどの植物は、現在も「新宿御苑」の温室で見ることができる。戦後「国民公園新宿御苑」となったのち、1951(昭和26)年より温室の公開も始まり、1958(昭和33)年に当時としては東洋一の規模を誇るドーム型の観賞用の温室が完成・公開となった。現在の温室(写真右)は2012(平成24)年にリニューアルオープンしたもの。
MAP __

写真は昭和中期の「日本庭園 上の池」。1880(明治13)年~1884(明治17)年まで、この池に皇室の鴨場「新宿御猟場」が設けられていた。「新宿御苑」への改修の際、日本庭園となり、周囲には鴨などの鳥類のほか、動物も飼われ「動物園」と呼ばれた。
MAP __【画像は昭和中期】

写真は現在の「日本庭園 上の池」。背後に見える高層ビルは2000(平成12)年に竣工した「NTTドコモ代々木ビル」。

大正から昭和へ 時代の変遷を見守った「新宿御苑」

大正天皇は、1926(大正15)年12月25日、静養していた「葉山御用邸」(神奈川県三浦郡葉山町)で崩御された。47歳という若さであった。翌年の1927(昭和2)年2月7日から「大喪儀」が行われ、「新宿御苑」が「大喪の礼」の会場となった。「宮城」(現「皇居」)から「御苑」までの沿道の整備が行われ、苑内には「葬場殿」や正門、参列者控所などの施設が建設された。天皇の霊柩を乗せた大喪列車の発駅として、「新宿御苑仮停車場」が「千駄ヶ谷駅」のすぐ北側に建設された。大喪後、「葬場殿」は「大正記念館」として「清澄庭園」内へ、「新宿御苑仮停車場」の上家は「浅川駅」(現「高尾駅」)の駅舎として移築された。
MAP __(葬場殿跡地)MAP __(新宿御苑仮停車場跡地)【画像は1927(昭和2)年】

写真左の巨木は「新宿御苑」のシンボルツリーとなっている「風景式庭園」のユリノキ。明治20~30年代に日本で初めて植えられたものといわれ、樹齢は約120年以上と推定されている。「葬場殿」は当時の図面や古写真から、ユリノキの右手前、写真中央付近に造営されていたと思われる。


新宿とフルーツの関係

『果樹栽培全書 第四』 1896年 福羽逸人 国立国会図書館蔵

『果樹栽培全書 第四』 1896年 福羽逸人 国立国会図書館蔵

福羽逸人は、全国各地の果樹の栽培に大きな功績を残しているが、特に日本における西洋イチゴの栽培への貢献でも知られている。明治期に入ると、日本では西洋イチゴ栽培の導入が試みられるようになったが、苗の輸入中に枯れるなど、うまく育たなかったという。こうした中、福羽は種子を取り寄せ「植物御苑」で実生・改良を重ね、1898(明治31)年、新品種「福羽イチゴ」を作出した。当初は皇室献上用で門外不出であったが、1919(大正8)年に一般に栽培が許可されると全国に普及した。現在日本で栽培される「女峰」「とよのか」「とちおとめ」「あまおう」などの品種は「福羽イチゴ」をルーツに品種改良が重ねられたものとなっている。

マスクメロンの栽培は、1893(明治26)年頃、福羽が種子を輸入し「植物御苑」の温室で試作したことに始まり、大正期頃に栽培方法が確立した。新宿の果物の専門店「高野」の二代目・髙野吉太郎は、1919(大正8)年、早くもマスクメロンの販売を開始している。明治後期以降、贈答に果物を用いることが流行したといわれるが、最高級の果実といえるマスクメロンを扱うことは、時代の趨勢を読んだものであった。翌1920(大正9)年には日本初のマスクメロン品評会が開催され、「早稲田大学」の創設者・大隈重信が栽培・命名した新品種「早稲田」が一等賞を獲得し新聞などで話題となっている。大隈は園芸愛好家でもあり、自宅には本格的な温室を持っていた。福羽と大隈は園芸を通じて交友が深く、福羽は栽培の指導も行っていた。

1926(大正15)年、「高野」は店舗を洋風建築に改装し、果物が主役の喫茶店「フルーツパーラー」を開店した。「フルーツパーラー」の流行とともに、マスクメロンをはじめとする高級果実は人々に広く認知されていった。



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