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浅草と「隅田川」

浅草の歴史は「隅田川」とともにあった。浅草の街が形成され発展した根本の存在といえる「浅草寺」は「隅田川」から観音像が引き上げられ祀られたことに始まると伝わる。江戸時代には北の新吉原、対岸の向島とともに賑わいを見せ、震災復興期には両岸に「復興三大公園」の一つ「隅田公園」が設置された。昭和初期には「東武鉄道」が「隅田川」を渡り浅草へ乗り入れるようになり、日本初の地下鉄駅とともに鉄道の要衝としても発展した。


江戸中期の民営有料橋に始まる「吾妻橋」 MAP __

江戸期の浅草は門前町から発展した繁華街、対岸の向島は風光明媚な行楽地で、浅草~向島間は渡し船の営業が盛んであった。江戸中期の1774(安永3)年、町人の出願、幕府の許可により、浅草~向島間に民営の有料橋が架橋された。「大川橋」(「大川」は「隅田川」の別称)が正式名であったが、一般には「吾妻橋」と呼ばれた。「吾妻」の由来は向島側の「吾嬬権現社」(現「吾嬬神社」)へ向かう道筋にあたることからともいわれる。江戸期に「隅田川」には5つの橋が架橋されたが、その中では最後の架橋となった(6番目の架橋は1864(明治7)年完成の「厩橋」)。それまでの4橋の架橋は幕府が行っていたが、唯一、民間による架橋となった(のちに幕府の管理へ移行)。数度の架け替えののち、1876(明治9)年に木橋として最後の架け替えが行われ、この時、正式に「吾妻橋」と命名された。この木橋は1885(明治18)年の洪水で上流の「千住大橋」が流された際、巻き添えで流失した。

1887(明治20)年、「吾妻橋」は「隅田川」最初の鉄橋として再架橋された。写真は明治後期の「吾妻橋」。【画像は明治後期】

1923(大正12)年の「関東大震災」では木製だった橋板が焼け落ちるなどの被害があったが、仮復旧ののち、1931(昭和6)年に「震災復興橋梁」の一つとして現在の「吾妻橋」が竣工した。震災翌年の1924(大正13)年には並行して専用橋が架けられ市電(のちの都電)が開通、現在の橋が完成すると道路上の軌道となったが、1972(昭和47)年に廃止された。

「復興三大公園」の一つとして整備された「隅田公園」 MAP __(水泳場跡地)

「関東大震災」からの復興事業も最終盤を迎えた1931(昭和6)年、浅草付近の「隅田川」両岸には「震災復興三大公園」の中でも最大の面積を誇る「隅田公園」が開園した。左岸・向島側は歴史ある「墨堤」の桜並木が再整備された。一方、右岸・浅草側は散策路、柳並木などからなる近代的な園地が整備され、「山谷堀」に架かる「今戸橋」の北には、水泳場や運動場、遊具がある広場などが開設された。「隅田公園」は1975(昭和50)年に東京都から区へ移管され、現在は浅草側が「台東区立隅田公園」、向島側が「墨田区立隅田公園」と別の公園になっている。1980(昭和55)年頃より「台東区立隅田公園」にも桜が多く植樹されるようになり、1985(昭和60)年には台東区と墨田区の提携事業で建設された歩行者専用橋「桜橋」も完成、現在は墨田区側とともに桜の名所として知られるようになった。
MAP __(桜橋)

「隅田公園水泳場」には飛込台も設けられていた。水泳シーズン以外は小型ボートに乗って楽しむこともできた。【画像は昭和前期】

「隅田公園水泳場」は戦後も引き続き利用された。「隅田公園水泳場」の北側には1959(昭和34)年に「台東体育館」が開館、翌年の1960(昭和35)年9月30日には馬場正平(のちのジャイアント馬場)氏と猪木完至(のちのアントニオ猪木)氏のデビュー戦の試合会場になるなど、プロレスの興業にも使用され全国的に知られるようになった。

「隅田公園水泳場」があった場所は、1983(昭和58)年に「台東リバーサイドスポーツセンター」の体育館(写真左)となった。現在も一帯はプール、体育館、陸上競技場などがあるスポーツの拠点で、開設当初からの機能は引き継がれている。写真右、「隅田川」に架かる橋が「桜橋」。

対岸から望む昭和前期の浅草

昭和前期、対岸から望む浅草の様子。東武伊勢崎線が「隅田川」を渡り、カーブを描いて浅草に乗り入れている。右上が「浅草寺」の境内、左の橋が「吾妻橋」。左下は「大日本麦酒 吾妻橋工場」で、川沿いには「隅田公園」が整備されている。【画像は昭和前期】

浅草の対岸となる「東京スカイツリー」から浅草方面を望む。

震災後に浅草乗り入れを実現した「東武鉄道」 MAP __

東武伊勢崎線の「浅草駅」は、1910(明治43)年より浅草の対岸、現在の「東京スカイツリー」の場所に置かれており、広大な敷地で舟運も利用でき、当時の貨物輸送には便利であった。しかし、旅客輸送には不利なため、「隅田川」を渡り、浅草、さらに都心方面への延伸を目指したが、江戸期からの繁華街であった浅草や上野に新規の駅を開設することは困難であった。そのような中、1923(大正12)年9月に「関東大震災」が発生し、上野・浅草一帯も壊滅的な被害を受けてしまう。「東武鉄道」は帝都復興のため上野までの延伸を計画、早くも翌月に免許を申請するが、1924(大正13)年12月、浅草までに限り認可となった。「帝都復興区画整理事業」のうち浅草一帯の区画整理では、1925(大正14)年6月に換地位置案を決定していたが、「東武鉄道」の浅草延伸の設計に合わせて、新駅開業を踏まえた街区計画に見直された。その後、区画整理の進行とともに「東武鉄道」による用地買収も進み、駅ビルの建設や「隅田川橋梁」などの工事も進められ、1931(昭和6)年に「浅草雷門駅」(現「浅草駅」)が開業となった。

左奥の大きな建物が「浅草雷門駅」で、このビルの2階に乗り入れる形で開業した。駅ビルのテナントには「松屋 浅草支店」(現「松屋浅草」)が入居し、日本初の屋上遊園地「スポーツランド」も開設された。写真に見える屋上の乗り物は、「航空艇」と名付けられていた8人乗りのゴンドラ。【画像は昭和前期】

2020(令和2)年、東武伊勢崎線の「隅田川橋梁」に沿って歩道橋「すみだリバーウォーク」(写真右下)が開通した。写真右は「隅田川橋梁」を通過中の「特急りょうもう」。東武伊勢崎線は2012(平成24)年より「東武スカイツリーライン」の愛称でも呼ばれている。

1931(昭和6)年に開業した「浅草雷門駅」と百貨店 MAP __

浅草への乗り入れが決まった「東武鉄道」は、1929(昭和4)年に地上7階・地下1階建ての駅ビル「東武ビルディング」の建築に着手。1931(昭和6)年、2階に「浅草雷門駅」が開業となり、地下1階で地下鉄の通路へ接続、3階以上のテナントに百貨店「松屋 浅草支店」が入った。写真は昭和前期の空撮で、左奥に「浅草寺」の境内が見え、移転前の「五重塔」の位置も確認できる。駅ビルの右上に見える大きい建物は「震災復興小学校」として建て替えられた「浅草小学校」。1873(明治6)年に「小学並木学校」として開校した、現在の台東区内で最古の小学校で、現在も同じ場所に立地している。【画像は昭和前期】

「浅草雷門駅」は終戦直後の1945(昭和20)年10月、「浅草駅」に改称された。駅ビルの「東武ビルディング」は戦災で内部を焼失したが、その後復旧し、時代とともに改装も加えられた。2012(平成24)年に耐震改修と内外装改修が完了し、創建時の姿に近い「EKIMISE」としてリニューアル。開業時からのテナント「松屋浅草」は、現在は地下1階・1階・3階で営業している。

写真は2010(平成22)年撮影の「浅草駅」「松屋浅草」。改装により、外装は開業当初とは異なっていたが、世代によっては、こちらの外装になじみがある、あるいは懐かしいと思う方も多いかもしれない。【画像は2010(平成22)年】

「両国の花火」から発展した「隅田川花火大会」

江戸中期、「隅田川」の「両国橋」周辺では、毎年夏に「夕涼」が行われ賑わった。その初日は「川開き」と呼ばれ、花火(「両国の花火」)が打ち上げられた。「両国の花火」は明治期以降も一時的な中止や、幕末期・戦時中などの中断を挟みつつも、時代や環境の変化も乗り越えて続けられたが、「隅田川」の水質悪化や交通事情など社会的な環境の変化を理由に1961(昭和36)年の開催を最後に中止となった。写真は明治後期の「両国の花火」。【画像は明治後期】

その後、「隅田川」の水質改善など、開催のための環境の改善が見られたため、花火大会の復活が検討されるようになり、1978(昭和53)年、「隅田川花火大会」へ改称、会場を浅草周辺に移して復活となった。現在、「第一会場」は「桜橋」~「言問橋」間、「第二会場」は「駒形橋」~「厩橋」間となっている。写真は「蔵前橋」付近から上流、「第二会場」の「駒形橋」方面を望んだもの。
MAP __(第一会場)MAP __(第二会場)


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