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都内最古の寺院「浅草寺」

「浅草寺」は1400年近い歴史があると伝わる、都内最古の寺院。628(推古天皇36)年、本尊の観音像が「隅田川」から引き上げられ祀られたことが「浅草寺」の始まりといわれる。これに関わる三人を祀ったのが「三社権現社」(現「浅草神社」)で、その例大祭が「三社祭」となる。鎌倉初期に「坂東三十三観音」が整えられると、その十三番札所(都内唯一の札所)となり、以降多くの巡礼者を迎えている。門前町は戦国時代に形成されたといわれ、江戸期以降、浅草の街は江戸・東京で最大の盛り場へ発展した。


江戸末期の「浅草寺」境内

図は江戸末期に描かれた『金龍山浅草寺御境内之図』を複写し、昭和前期に発行された絵葉書で、焼失する前の「雷神門(雷門)」も描かれている。「雷門」の南、東西に延びる太い道は一般に「広小路」と呼ばれ、茶屋や屋台などで賑わった。「浅草寺」の境内の東側(図では右側)は「日光街道」沿いに発達した浅草花川戸町の町人地。【画像は江戸末期】

現在の「浅草寺」境内を「浅草文化観光センター」から望む。かつての「広小路(浅草広小路)」は、「雷門通り」と呼ばれている。
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境内の東側にあった「五重塔」

「浅草寺」の仏塔は942(天慶5)年に初めて建立されたといわれる。写真は明治後期の撮影で、奥の「五重塔」とその右の「仁王門」は、江戸前期、三代将軍・徳川家光の寄進で再建されたもの。当時の「五重塔」は本堂の東側にあった。「五重塔」は1911(明治44)年に国宝となったが、1945(昭和20)年の「東京大空襲」で、「五重塔」「仁王門」を含め、境内の多くの堂宇を焼失した。【画像は明治後期】

現在の同地点付近の様子。「仁王門」は大谷米太郎氏の寄進により1964(昭和39)年に再建され、「経蔵」を兼ねて寺宝などを収蔵することから「宝蔵門」へ改称。「五重塔」は1973(昭和48)年に本堂の西側で再建された。かつての「五重塔」の跡地には「旧五重塔跡」と記された石柱が建てられている。
MAP __(旧五重塔跡)MAP __(現在の五重塔)MAP __(宝蔵門)

唱歌や流行歌にも歌われた境内の鳩と餌売り

「浅草寺」境内には江戸時代から露店・出店(でみせ)が営業しており、現在も多くの露店が見られる。明治期より、鳩の餌売りの露店(「鳩豆屋」とも呼ばれた)が見られるようになったといわれ、1900(明治33)年には、境内で子どもが鳩へ餌やりする様子を描いた唱歌『鳩ぽっぽ』(作詞・東くめ氏、作曲・滝廉太郎氏)も作られた。写真は明治後期、「本堂」前で営業する鳩の餌売りの露店。大正後期に流行した『東京節(パイノパイノパイ)』の中では『鳩ポッポ、豆売るお婆さん』として、「雷門」「仲見世」「十二階(凌雲閣)」などとともに浅草名物として歌われた。
MAP __(本堂前)【画像は明治後期】

戦後も、鳩の餌売りの露店は「浅草寺」の名物で、1962(昭和37)年には境内に「鳩ポッポの歌碑」(写真)が建立された。しかし、1990年代頃から、鳩の糞害などが問題となり、2003(平成15)年に鳩の餌売りの露店は撤退した。翌年、境内での鳩への餌やりを禁止する看板も立てられ、以降、境内の鳩は激減したといわれる。
MAP __(歌碑)

「雷門」の焼失と仮設・再建 MAP __

「雷門」の正式名称は「風雷神門」で「風神」と「雷神」を門の左右に奉安していることに由来する。平安期に造られた「総門」を起源とし、鎌倉期に現在地へ移転したといわれ、その後、焼失や再建が繰り返された。「雷門」の名称は、江戸後期の川柳に『風の神 雷門に 居候』と詠まれていることから、この頃までには一般化していたことがわかる。1795(寛政7)年に江戸期では最後となる再建が行われ、この頃より提灯の奉納が始まった。しかし、この時の「雷門」は幕末期の1865(慶応元)年に発生した田原町の火災で類焼してしまい、明治期に入ると「廃仏毀釈」「神仏分離」が進められる時勢の中、「雷門」が再建されることはなく、その後も何度か再建が試みられるも実現に至らなかった。

1898(明治31)年の「奠都三十年祭」の際には仮設の「雷門」が作られ、祝祭を盛り上げた。1925(大正14)年には「仲見世」の震災復興店舗(現在の建物)の完成を祝し、写真の「雷門」が仮設された。1933(昭和8)年には「浅草寺」の震災からの大営繕が落慶となり、記念の御開帳が行われたが、その際には「松坂屋」の寄進による「雷門」が仮設されている。【画像は大正末期~昭和初期】

1960(昭和35)年、「松下電器産業」(現「パナソニック」)の創業者・松下幸之助氏の寄進により、約一世紀ぶりに「雷門」が復活した。

江戸前期に始まる「仲見世」 MAP __

「仲見世」は江戸前期、付近の住民へ境内掃除の賦役を課す代わりに、参道で出店営業する許可が与えられたことに始まるといわれ、茶屋や土産物店が立ち並ぶ門前町へ発展した。店舗が「浅草寺」と「広小路」の間にあることから「仲見世」と呼ばれるようになったといわれ、かつては「中店」「中見世」などとも表記されていた。明治期に入ると「浅草寺」の境内は「仲見世」も含め、「浅草公園」として東京府の管理下に置かれた。その後も「仲見世」は賑わいを増し混沌とした状態に陥ったため、東京府は1885(明治18)年5月に一旦全店を取り払い、店舗の管理と防火のため煉瓦造りの洋風な長屋を建設、同年12月に近代的な「仲見世」が誕生した。入居する店舗は抽選により決められた。

写真は明治後期、煉瓦造りの時代の「仲見世」。「関東大震災」では一帯が壊滅的な被害を受ける中、「浅草寺」は倒壊を免れ、震災後に下町を焼き尽くした火災からも奇跡的に焼け残った。そのため、震災直後は多くの避難民が集まり、また、その霊験から多くの人が参詣に訪れた。門前の「仲見世」は、煉瓦造りだったこともあり倒壊してしまったが、「浅草寺」へ訪れる参詣客を相手に露店やバラックで営業を再開し、すぐに賑わいを取り戻した。【画像は明治後期】

震災から約2年後となる1925(大正14)年11月には、早くも震災復興の店舗が完成した。鉄筋コンクリート造り、桃山風朱塗りの建物で、1945(昭和20)年の「東京大空襲」では内部を焼失したが、戦後に修復され、現在も使用されている。約250mの参道に約90の店舗が立ち並び、国内外から多くの参拝客・観光客が訪れる浅草を代表する観光地となっている。


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