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賑わいの地

向島は、江戸期より風光明媚な郊外の行楽地として栄え、特に、江戸有数の桜の名所としても賑わった。明治期以降も「隅田川」沿いは行楽地として、また遊興の地として発展。桜、花火、レガッタなどの見物でも多くの人が訪れた。1937(昭和12)年には「錦糸町駅」前の「汽車製造 東京支店」跡地にレジャー施設「江東楽天地」が開業、江東地区のアミューズメントセンターとなった。


江戸期からの桜の名所として賑わう「墨堤」 MAP __

「隅田川」の左岸(現・墨田区側)の土手は「墨堤(ぼくてい)」と呼ばれる。もともと自然堤防があったが、室町時代には堤防が整備されたとの記録が残り、徳川家康の江戸入府以降も修築が行われている。「墨堤」の桜は、寛文年間(1661~1673年)、四代将軍・徳川家綱が「木母寺(もくぼじ)」周辺に植えさせたのが始まりで、1717(享保2)年には、八代将軍・徳川吉宗が庶民の行楽地とするため、100本の桜を植樹させたという。その後も地元の人などにより桜の植樹は続けられ、「墨堤」は江戸で一番ともいわれる桜の名所として賑わうようになった。

写真は明治後期の「墨堤」の桜並木で、撮影場所は浅草の「待乳山聖天」と「三囲神社」前を結んでいた「竹屋の渡し」の船着き場周辺。【画像は明治後期】

明治期以降も桜の植え替えが行われており、現在も「墨堤」は桜の名所として知られ、多くの人で賑わう。

「植半」と「太陽閣」

「植半」は江戸前期、「木母寺」の境内にあった3軒の茶屋のうちの一つ「植木屋」に始まる老舗で、代々の坂田半右衛門が引き継ぎ「植半」と呼ばれた。江戸後期には蜆汁、八頭芋料理などで有名になり、料理屋を名乗るようになった。図は江戸末期に描かれた「植半」。
MAP __【図は江戸末期】

写真は現在の同地点付近。右が「都営白髭東アパート」となる。

明治期に入ると、「植半」は向島須崎町へ支店を出した。こちらの店も繁盛し「中の植半」と呼ばれるようになり、対して本店は「奥の植半」と呼ばれるようになった。図は明治中期に描かれた図で、左下が「中の植半」、右上が「奥の植半」。
MAP __(中の植半)【図は明治中期】

明治後期に「中の植半」は衰退し閉店。1912(大正元)年、跡地に実業家・岸源三郎が「太陽閣向島温泉」を開業した。「宝塚新温泉」のようなレジャー施設を目指し、200人以上が入浴できる大浴場、5つの家族風呂、大広間、個室、洋食レストラン、ビリヤード設備なども備えていた。しかし、芸妓などとの逢い引きに使用されることも多くなり、風紀を乱すものとの批判も増え、1915(大正4)年に解散となった。

経営者の岸源三郎は1911(明治44)年、当時衰退していた「浅草十二階(凌雲閣)」を買収し、興行で復活させた京都出身の実業家。翌年には「株式会社十二階」を設立し代表となった(1913(大正2)年に辞任)。その後も浅草界隈の興行に関わり1918(大正7)年に逝去した。【画像は大正初期】

「太陽閣向島温泉」だった建物は、「墨田川造船所」(1913(大正2)年設立、現「墨田川造船」)の分工場となり、かつての個室は事務室・応接室など、大浴場は工場として使用された。この土地は、震災復興により「隅田公園」の一部となり、1930(昭和5)年、このあたりは「東京帝国大学 向島艇庫」「東京商科大学 向島艇庫」の移転先となった。写真左手の首都高速道路の下のあたりが「中の植半」「太陽閣向島温泉」「東京帝国大学 向島艇庫」「東京商科大学 向島艇庫」の跡地となる。

「隅田川」のレガッタ

日本におけるレガッタ(ボートレース)は、幕末に外国人が行ったのが最初で、しばらくは外国人が行うスポーツであった。明治10年代になると学校や企業がボートを購入、漕艇の練習を始めるようになり、1883(明治16)年、「隅田川」で日本初の対校レガッタとなる「(旧)東京大学」(のちの「東京帝国大学」、現「東京大学」)と「体操伝習所」(「筑波大学」の前身の一つ)の対校戦が開催された。1887(明治20)年には「東京大学」と「高等商業学校」(のちの「東京高等商業学校」「東京商科大学」、現「一橋大学」)などの対校戦が行われ、これが現在まで続く「東商レガッタ」の源流となった。

写真は1906(明治39)年に本所区向島須崎町に設けられた「東京高等商業学校 向島艇庫」(1920(大正9)年より「東京商科大学」)。左側(写真外)には隣接して「東京帝国大学 向島艇庫」(1887(明治20)年完成)もあった。両校の艇庫は「関東大震災」で焼失、一帯は震災復興で「隅田公園」として整備されることになった。この整備の中で艇庫は数十mほど上流へ移されることになり、1930(昭和5)年、両校並ぶ形のまま再建された。
MAP __(震災前の位置)MAP __(震災復興後の位置)【画像は大正期】

「一橋大学 向島艇庫」は、「隅田川」沿いの大学の艇庫としては最後まで残っていたが、1967(昭和42)年に「首都高速6号向島線」の建設のため取り壊された。現在、神奈川県の「相模湖」畔にある「一橋大学相模湖合宿所」は、この艇庫の代替施設として、1971(昭和46)年に建設されたもの。写真は「隅田公園野球場」で、この奥の首都高速の下が「一橋大学 向島艇庫」の跡地となる。「隅田公園野球場」は、1949(昭和24)年、有志や子どもたちが整備して誕生した日本初の少年野球場。本所区出身の王貞治選手をはじめ、多くの球児がこの球場で育った。左の建物は江戸末期、この地に創業した老舗「言問団子」。

1900(明治33)年に発表された瀧廉太郎作曲の「花」を作詞した武島羽衣は、歌詞の中に『上り下りの舟人が 櫂(かい)のしづくも花と散る』と、「隅田川」のレガッタの様子を描いている。1905(明治38)年には「早稲田大学」と「慶應義塾大学」の対校戦も始まり、「早慶レガッタ」として現在まで続いている。写真は明治後期の「隅田川」でのレガッタの様子。向島側からの撮影で、正面が「待乳山聖天」と「山谷堀」となる。
MAP __【画像は明治後期】

現在の「待乳山聖天」付近の「隅田川」の様子。右の大きい建物が「台東リバーサイドスポーツセンター」。その左隣付近にあった「山谷堀」は暗渠化されており、かつての河口部分は「山谷堀水門」となっている。

昭和期に入り、東京の工業発展や人口集中によって「隅田川」の水質は悪化。戦後、水質はさらに悪化、悪臭も激しくなったこともあり、1961(昭和36)年以降、「隅田川」では大学のレガッタの対校戦は行われなくなった。その後、官民あげて「隅田川」の水質改善への取り組みが始まり、昭和50年代に入ると浄化が進んだことから、1978(昭和53)年に「隅田川」での「早慶レガッタ」が復活した。写真右の碑は2016(平成28)年に設置された「隅田川ボート記念碑」。左は明治天皇が海軍のレガッタを天覧した際の玉座の跡地に、1941(昭和16)年に建立された「明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯」の碑。
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「隅田川」沿いに2店舗あった料亭「八百松」

江戸期の江戸を代表する浅草の料理店「八百善」で修業した小山松五郎は、江戸後期に「水神の森」(「水神社」(現「隅田川神社」)の鎮守の森のこと)付近に料亭「八百松」を開業。焼鳥などが評判となり、1870(明治3)年には「枕橋」付近に支店を開業した。写真は明治後期頃、「隅田川」から見た「隅田川神社」で、右の建物が「八百松」の本店。
MAP __【画像は明治後期頃】

「隅田川神社」は、戦後、首都高速道路建設などのため、少し南に移築された。また、「都営白鬚東アパート」の建設により、参道の位置も南へ移動している。写真は現在の「隅田川神社」の一の鳥居で、「墨堤通り」沿いにある。参道は「都営白髭東アパート」の6号棟と7号棟の間を通る。「隅田川神社」は、かつての隅田村の総鎮守で、「牛嶋神社」と同様に源頼朝の伝説が残る。また、このあたりは、「古代東海道」の宿駅「隅田宿」があった場所ともいわれている。
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写真は「枕橋」そばの「八百松」の支店。左の河川が「隅田川」、右が「源森川」(現在は「北十間川」の一部)で、写真外右手に「枕橋」がある。浅草の対岸に位置し、「隅田川」越しに「浅草寺」の五重塔や「富士山」なども望める風光明媚な場所で、政財界の要人も利用する有名店となったが、「関東大震災」で被災し閉店した。
MAP __【画像は明治後期~大正前期】

写真は現在の同地点付近の様子。首都高速道路の橋脚付近が「八百松」の跡地となる。正面に東武鉄道の「隅田川橋梁」、右手に「源森川水門」がある。

娯楽のデパート「江東楽天地」 MAP __

1937(昭和12)年、「阪急電鉄」「東宝」などの創業者・小林一三は、「錦糸町駅」前の「汽車製造 東京支店」跡地にレジャー施設「江東楽天地」を開業。映画館の「江東劇場」「本所映画館」が開設され、翌年には遊園地、「吉本興業」が運営する「江東花月劇場」、「須田町食堂」が経営する大食堂なども開場となった。図は昭和戦前期の「江東楽天地」の全景。【図は昭和戦前期】

「江東楽天地」は戦時中の空襲で被災したが、戦後に復興を果たし、1948(昭和23)年には、改装された「江東劇場」で「宝塚歌劇団」の公演も行われた。その後、場外馬券売場やスポーツランド、空中ケーブルカー、温泉施設なども誕生、江東地区のアミューズメントセンターとして発展した。図は1958(昭和33)年の「江東楽天地」の年賀状で、この頃、映画館は年賀状にある直営8館のほか、「江東吉本劇場」(のちの「江東東映」)、「江東花月映画劇場」の計10館があった。【図は1958(昭和33)年】

1961(昭和36)年に「東京楽天地」へ改称。1986(昭和61)年、全面改築により「楽天地ビル」が竣工、核テナントとして百貨店「錦糸町西武」が入り、1999(平成11)年から「LIVIN 錦糸町店」、2019(平成31)年からは「錦糸町パルコ」が入っている。映画館は、1999(平成11)年の改装でシネマコンプレックスとなり、現在は4スクリーンの「TOHOシネマズ 錦糸町 楽天地」となっている。

写真は1957(昭和32)年の「江東楽天地」。左の建物が「江東名画座」で、「江東楽天地」の敷地の中央付近から東方面を望んでいる。
MAP __【画像は1957(昭和32)年】

過去写真の撮影地点は、現在の「東京楽天地」裏付近となる。


向島一帯の花街・色街としての歴史

「向嶋墨堤組合」

現在の「向嶋墨堤組合」。
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「向島(向嶋)」とは、江戸期からの繁華街・浅草から見て、「隅田川」の向こう側にある地のこと。江戸期より、風光明媚な郊外の行楽地として栄え、特に、江戸有数の桜の名所としても賑わった。

「向島」には江戸期より料理屋もあり、当時の遊興客は、吉原など浅草側の芸妓と一緒に渡し舟で訪れたという。明治に入ると、見番が置かれるようになり花街として発展。1940(昭和15)年には芸妓約1,300名と最盛期を迎えるが、戦時中の「東京大空襲」で大きな被害を受けた。戦後、「向島」の花街は復興を遂げるが、その後、社会情勢の変化から衰退。組合は1986(昭和61)年に再編され「向嶋墨堤組合」となった。2016(平成28)年現在、都内最大、全国でも最大規模となる芸妓90名を抱えており、花街の伝統・文化を継承している。

昭和中期の「新玉の井」

昭和中期の「新玉の井」。
【画像は昭和中期】

「玉の井」は、古くは田園地帯であったが、大正中期頃に、浅草の銘酒屋(私娼がいる店)が数軒移転してきたことで繁華街としての歴史が始まり、「関東大震災」後は、その動きが加速し発展した。多くの文士も訪れた街で、永井荷風の小説『濹東綺譚』などの作品の舞台としても知られる。もともと畦道であったことから、雨が降るとぬかるむ、迷路のような路地で、各所に「ぬけられます」「ちかみち」などと書かれた看板があり、荷風は「ラビラント(迷宮)」と表現した。「玉の井」は、戦時中の「東京大空襲」で焼失した。

終戦後、「玉の井」の業者は、焼け残った北側の地域(「新玉の井」とも呼ばれる)に移り営業を続け、「赤線」として発展した。「新玉の井」は、滝田ゆう氏の漫画『寺島町奇譚』の舞台としても知られる。
MAP __(玉の井いろは通り商店街)

昭和中期の「鳩の街」

昭和中期の「鳩の街」。
【画像は昭和中期】

また、「玉の井」の一部業者は、「東京大空襲」後・終戦前に「寺島商栄会」(1928(昭和3)年から続く商店街)付近に移転、開業した。終戦直後、進駐軍のための慰安施設「RAA」とされた(この時から「鳩の街」と呼ばれるようになったという)のち、「赤線」として発展した。

「新玉の井」「鳩の街」とも、1958(昭和33)年の「売春防止法」施行により色街としての歴史を終えた。現在は落ち着いた住宅地などになっているほか、「鳩の街」はレトロな商店街としても人気がある。
MAP __(鳩の街通り商店街)



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