このまちアーカイブス INDEX

娯楽地として賑わう「六区」 シンボルタワー「十二階」も

「明治維新」後の浅草は公園地となり、一区から七区という区画が設定された。このうち、現在も「六区」として親しまれている興行街には、人気の劇場、映画館が建ち並んだ。そのほかにも、日本最初の遊園地である「浅草花屋敷」(現「浅草花やしき」)、東京のシンボルタワーであった「浅草十二階(凌雲閣)」も建設され、浅草の繁栄は続いていった。


明治東京のシンボルタワー 「関東大震災」で崩壊 MAP __

平成の「東京スカイツリー」、昭和の「東京タワー」に先立つ、明治・東京のシンボルタワーがこの「浅草十二階(凌雲閣)」だった。1890(明治23)年、ウィリアム・K・バルトンの基本設計で建設され、日本初の電動式エレベーターが設置されていた。【画像は明治後期】

「浅草十二階(凌雲閣)」、「ひょうたん池」にあたる場所付近には、2015(平成27)年に新しい商業施設がオープンした。

明治に開削され、戦後の埋め立てで姿消す MAP __

「浅草十二階(凌雲閣)」から見下ろした「浅草公園」「ひょうたん池」の風景。明治中期に「浅草公園」の街区(一区~七区)が造成された際、この「ひょうたん池」が開削された。戦後、埋め立てられて姿を消している。【画像は大正期】

幕末に開園、日本最初の遊園地 当初の植物園が名の由来 MAP __

「浅草花屋敷」(現「浅草花やしき」)は幕末に庭園として開園し、現在は日本最古の遊園地として営業を続けている。木戸(門)上の看板の横には、「活動大写真」の文字も見える。左奥には、「浅草十二階(凌雲閣)」がそびえている。【画像は明治後期】

時代の波を乗り越えて多くの人に愛され続けている遊園地、「浅草花やしき」。オールドファンにはなつかしい「Beeタワー(旧・人工衛星塔)」は健在だが、ゲート付近の雰囲気は大きく変わった。

「浅草公園」の「六区」は奥山から小屋が移転し、興行街に MAP __

興行の旗や幟、看板が林立し、見物客(観客)でごった返す「六区」の興行街。「不如帰」や「真心」といった芝居の演目が見え、左の劇場(小屋)には、1911(明治44)年に開業した「千代田館」の看板がのぞく。【画像は明治後期~大正期】

笑いの殿堂、「浅草演芸ホール」は今も「六区」で営業を続けている(左)。右手奥には、高層ビルの「リッチモンドホテルプレミア浅草インターナショナル」が誕生した。

昭和12年に誕生したマンモス劇場 跡地はホテルに MAP __

「松竹少女歌劇公演」の文字看板が見える、在りし日の「浅草国際劇場」。「松竹歌劇団」の本拠地としても人気を博したこの劇場は、1937(昭和12)年に開場し、1982(昭和57)年まで、演劇、レビュー、音楽ショーなどが行われた。閉鎖された後も敷地前の「国際通り」に名を残す。【画像は昭和前期】

「浅草国際劇場」の跡地に建つ、「浅草ビューホテル」。1985(昭和60)年にオープンした地上28階、地下3階の高層建築である。


計画的な賑わいの街・浅草 興行街「六区」の繁栄

1873(明治6)年、「浅草寺(浅草)」は太政官布達により、「寛永寺(上野)」、「増上寺(芝)」、「富岡八幡(深川)」、「飛鳥山(王子)」とともに、「万人偕楽ノ地」として、日本初の公園でもある「東京五公園」の一つに指定された。1884(明治17)年、「浅草公園」の敷地は七つの区画に分けられ、浅草一区~七区が誕生した。

当初に設けられた一区は「浅草寺」本堂周囲、二区は「仲見世」、三区は「浅草寺」本堂と「伝法院」の敷地、四区は「林泉池」・「ひょうたん池」付近、五区は奥山(「浅草花屋敷」周辺)、そして六区が現在も続く興行(映画)街だった。また、追加された七区は公園東南部の浅草馬道周辺で、後に公園地から除外されている。

このうち、興行街・歓楽街の「六区」は明治~昭和期を通じ、「浅草公園」を冠する必要がないほど、その名が全国的に有名になった。初期には奥山から移転してきた見世物や芝居、演芸などの小屋が建ち並び、やがて、活動写真を上映する映画館に変わった。大正期には、「浅草オペラ」と呼ばれる独特の軽演劇も人気を集めた。当時は年中、昼となく、夜となく街は賑わい、特に「藪入り」と呼ばれる年2回の休日には、商店の奉公人が押しかけて、道路からあふれるような人出だったという。



次のページ 浅草と「隅田川」、東武線


MAP

この地図を大きく表示



トップへ戻る