江戸期、「吾妻橋」の東、浅草の対岸となるこの地は、数家の大名の武家屋敷として移り変わった。1822(文政5)年、沼津藩の水野忠成の屋敷地となったとき、庭園が築造され「浩養園」と命名された。幕末の1860(万延元)年には、「久保田藩(秋田藩)佐竹家下屋敷」となった。庭園は「佐竹邸庭園」のほか、以前からの名称「浩養園」などと呼ばれ、1890(明治23)年より一般公開し、多くの人々の憩いの場となった。写真は明治後期の「浩養園」。
川越しに浅草や「富士山」を望む「隅田川」の東岸沿いは、江戸期から風光明媚な地であり、大名の下屋敷(別荘)も多く置かれ、明治期に入ると、政府要人や実業家が別邸を構えるようになった。その後、広大な土地であることから、工業用地などに利用されたが、「旧安田庭園」のように、大名庭園・別邸時代からの歴史を伝える施設も残る。