1871(明治4)年、明治政府は寺社が所有していた寺社領の多くを上地し官有地とした。1873(明治6)年1月、政府より公園設定に関する太政官布達が出されると、東京府は「浅草寺」「寛永寺」「増上寺」「富岡八幡社」の境内地と「飛鳥山」の5か所を公園の候補地として申し出て、同年3月、「浅草公園」「上野公園」などが、日本初の公園(「東京五公園」とも呼ばれる)として指定された。
公園が開設されると、東京府は管理する公園内の店舗から地代収入を得ることとなった。江戸期に「浅草寺」の境内であった「浅草公園」の敷地内には、開園時点で、すでに「仲見世」を含め商業地が発達していたこともあり、「浅草公園」内の店からの地代は、東京府の公園収入の多く(1887(明治10)年時点で約60%)を占めるようになり、「東京五公園」をはじめとする公園運営費などの財政を支えた。
東京府はさらに安定的な収入を得るため、「浅草公園」の拡張整備に取り組んだ。1876(明治9)年、かつて「浅草寺」の火除け地であった境内西側の湿地、通称「浅草田圃(たんぼ)」を「浅草公園」の区域へ組み込み、1882(明治15)年から翌年にかけて「ひょうたん池」(正式名は「大池」)を開削、林泉地(のちの「第四区」、以下「四区」)とし、残土で池の西側を造成、新しい造成地は興行地(のちの「六区」)とした。「浅草公園」内に散在していた料亭や見世物小屋などは近代的な公園にふさわしくないとされ、この新しい興行地に集約された。
拡張完成の翌年となる1884(明治17)年、「浅草公園」は「一区」から「六区」まで6つに区分された(一時期は「七区」もあった)。「一区」は「浅草寺」の「本堂」周辺、「二区」は「仲見世」、「三区」は「伝法院」周辺、「五区」は奥山(「浅草花屋敷」周辺)、「七区」は「仲見世」に隣接する地域であった。
「浅草公園」では各区ごとに建物の高さや用途、営業可能種目などの厳しい制限が決められた。「二区」(「仲見世」など)や「五区」(奥山)は、概ねの種目の商店・飲食店が許可されたが、高い建物の建築や、寄席や見世物小屋などの興業や、牛肉店・天ぷら店・鰻店といった高級料理店・料亭が営業が可能なのは「六区」に限定されたため、「六区」は浅草の中でも特に賑わう繁華街・興行街として発展することとなった。
明治後期に始まる映画館や、日本のクラシック音楽の歴史上でも重要な大正期の「浅草オペラ」の劇場、多くのスターや芸能人、芸人を生み出した演劇場・演芸場・寄席などで賑わった「六区」は、日本の芸能や文化の発展にも多大な影響を与えた街といえる。