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「天王寺公園」の開園と整備

「天王寺公園」は1903(明治36)年に開催された「第五回内国勧業博覧会」の跡地を利用し、1909(明治42)年に開園した。1915(大正4)年に「大阪市立動物園」、1936(昭和11)年に「大阪市立美術館」が開館し、都市公園として整備された。この間、「住友家茶臼山本邸」が寄付され、「慶沢園(けいたくえん)」などが園地に加わっている。


「第五回内国勧業博覧会」跡地が「天王寺公園」へ

「内国勧業博覧会」は明治時代、外国の技術の紹介や国内の産業発展を目的として政府が主催した博覧会。1877(明治10)年の「第一回」から「第三回」までが東京の「上野公園」で、「第四回」が京都の「岡崎公園」で開かれた。1890(明治33)年、誘致の末「第五回」の開催は大阪市に決定。交通利便性などの条件から天王寺今宮一帯を公園地として買収・整備し会場とした。また、堺市の「大浜公園」が第2会場となり「水族館」が開設された。「第五回内国勧業博覧会」は1903(明治36)年3月1日より5ヶ月にわたり開催され、会期中の入場者が約530万人を超えるなど「内国勧業博覧会」としては最後にして最大規模のものとなった。

図は会場の様子を描いたもので、左は「名古屋城」を模した「愛知県売店」、噴水の奥は「正門」、右奥が「美術館」で、その後に「大林組」が建設した「望遠楼」(通称「大林高塔」)が描かれている。「大林高塔」は高さ約45m・木造の展望塔で、大阪では初となるエレベーターが設置されていた。また、「内国勧業博覧会」としては初めて夜間開場(日曜・祭日のみ)が行われ、会場のライトアップも人気となった。
MAP __(正門跡地)【図は1903(明治36)年】

写真は会期中に「大林高塔」から撮影した会場の様子で、左の建物は「美術館」、中央奥が「正門」。写真中央の「エビスビール」の建物は大きいビヤ樽の形で目を引いた。会期後、跡地(公園地)は「日露戦争」の開戦に伴い陸軍が一時使用したのち、東側は公園として整備され1909(明治42)年に「天王寺公園」が開園。公園地の西側は貸与(その後売却)され、1912(明治45)年に「新世界」が開業した。
MAP __(大林高塔跡地)【画像は1903(明治36)年】

写真は大正期の「天王寺公園」の園内。奥に見える洋館は「第五回内国勧業博覧会」の時に「美術館」として建設された建物。閉会後は「関西大学」が仮校舎として一時使用したのち、1917(大正6)年より「大阪市立市民博物館」として使用された。手前は「日本式庭園」。
MAP __(大阪市立市民博物館跡地)【画像は大正期】

かつて「日本式庭園」があった場所は「大阪市天王寺動物園」の「鳥の楽園」付近、「大阪市立市民博物館」があった場所は、現在の「てんしばイーナ」付近(写真)となる。
MAP __(鳥の楽園)

日本で3番目の動物園「大阪市立動物園」 MAP __ MAP __(府立大阪博物場跡)

府立大阪博物場」の動物檻の廃止により、収容動物を「天王寺公園」に引っ越す形で開園した「大阪市立動物園」。1915(大正4)年、東京、京都に次ぐ日本で3番目の動物園として開園し、戦前には、春と夏に夜間開園も実施していた。【画像は昭和戦前期】

1964(昭和39)年に「大阪市天王寺動物園」へ改称となり、現在は約11haの園内に約180種、1,000点の動物が飼育され、多くの人で賑わっている。

「住友家茶臼山本邸」の庭園に始まる「慶沢園」 MAP __

住友家十五代・住友吉左衛門友純(号・春翠)氏は1895(明治28)年に「茶臼山」周辺の用地を購入し「茶臼山別邸」とし、その後敷地を拡張させていった。「茶臼山」自体は明治期に入ると「陸軍省」の所管となっていたが、1897(明治30)年に「三菱財閥」の岩崎久弥氏へ払下げられ、1902(明治35)年に春翠氏の所有となった。この頃の「茶臼山別邸」は当時の皇太子殿下を始め、皇族・華族・実業家なども訪れる社交場となっていた。1894(明治40)年頃より本邸と庭園の建設に着手、1896(明治42)年より「植治」こと小川治兵衛氏に造園が任せられた。1915(大正4)年に鰻谷から茶臼山町へ本邸が移され、庭園は「恵沢園」と命名され、1918(大正7)年、庭園の完成とともに名称を「慶沢園」へ改めた。「茶臼山本邸」では園遊会・茶会などが多く開かれ、住友家の迎賓館の役割を果たした。

大阪市が1920(大正9)年に市立美術館を計画、建設地を検討をはじめると、翌1921(大正10)年、春翠氏は「茶臼山本邸」の敷地の寄付を申し出た。完成間もない「茶臼山本邸」ではあったが、明治末期以降、台地の眼下に広がる「新世界」が賑わうようになると、春翠氏はその猥雑さを嫌い転居を決めたといわれる。大阪市への寄付の条件として、美術館・公園を作ること、「茶臼山」は史跡として保存すること、公園に使用しない場合は返還することなどが付けられた。1925(大正14)年、住友家の本邸は兵庫県住吉村へ移され、翌1926(昭和元)年12月、「茶臼山本邸」は大阪市へ寄付された。

「茶臼山」は1928(昭和3)年に大阪市が買い取り、1932(昭和7)年、「茶臼山本邸」跡地とともに「天王寺公園」の一部となった。写真は1928(昭和3)年頃の「慶沢園」。【画像は1928(昭和3)年頃】

写真は現在の「慶沢園」。江戸時代の大名庭園をモデルとした林泉式回遊庭園となっている。

住友家の土地の寄付で誕生した「大阪市立美術館」 MAP __

大阪市は1920(大正9)年に市立美術館を計画、建設地は住友春翠氏の寄付の申し出から「住友家茶臼山本邸」の場所に決まった。1926(昭和元)年、「茶臼山本邸」は大阪市へ寄付され、翌年着工したが、世界恐慌の影響による工事の中断などもあり、1936(昭和11)年に完成・開館となった。公立美術館としては東京府、京都市に次いで国内で三番目に古い。戦時中は陸軍に、戦後は連合国軍の接収を受けたのち、1948(昭和23)年に展示を再開した。【画像は昭和戦前期】

「大阪市立美術館」は現在、日本・東洋の古美術品を中心に約8,500点のコレクションがあり、大阪の財界人・市民の寄贈・寄託の美術品も多い。1992(平成4)年に地下展覧会室が増築され、2015(平成27)年には、建物が国の登録有形文化財となった。

写真は「大阪市立美術館」の建設前、この地にあった「住友家茶臼山本邸」のうちの和館部分。【画像は大正期】


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