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住宅地開発が進み、変化する街

大正初期から住宅地として分譲された帝塚山は現在では全国的にも有名な高級住宅地となった。開発と同時期に教育機関の立地も進み、大阪有数の文教エリアとしても知られるようになった。帝塚山の他にも、明治以降、「上町台地」では各地で耕地整理、土地区画整理が行われ、阪南町、昭和町、美章園などの住宅地が誕生した。


「住吉第一耕地整理」により開発された帝塚山の住宅地 MAP __

帝塚山は明治中期より別荘地(別邸地)として発展し、1912(明治45)年から始まる「住吉第一耕地整理」により住宅地として開発が進んでいった。1914(大正3)年に「住吉第一耕地整理」が完了すると、「東成土地建物株式会社」による住宅地の分譲が始まった。この会社は帝塚山界隈で最大の地主であった山田市郎兵衛氏を中心に設立されたもの。山田市郎兵衛氏は「帝塚山学院」や「大阪府女子専門学校」(現「大阪府立大学」)の創設にも携わり、帝塚山の開発に大きく貢献した。【画像は1925(大正14)年頃】

現在、帝塚山は大阪屈指の高級住宅地として知られる。その一部、現在の「帝塚山駅」「帝塚山駅」の北側一帯は、美しい街並みを将来にわたって保持するため、1933(昭和8)年に「聖天山風致地区」に指定(1970(昭和45)年追加・変更)されている。写真は現在の「帝塚山学院」前の住宅地。

移り住んだ住民の子女教育のために設立された「帝塚山学院」 MAP __

帝塚山に移り住んだ住民の子女教育のため、1917(大正6)年「帝塚山学院小学校」を開校、翌年には「帝塚山学院幼稚園」を開園、1926(大正15)年には「帝塚山学院高等女学校」を開校した。初代学院長の庄野貞一氏は「力の教育」を提唱し、「自学主義」教育が実践されてきた。1941(昭和16)年には別法人「帝塚山学園」を設立し、男子のための中等教育施設、旧制「帝塚山中学校」を、奈良の「菖蒲池」の近くに開校した。【画像は1917(大正6)年頃】

現在、「帝塚山学院」は幼稚園から大学・大学院まで擁し、2016(平成28)年には創立100周年を迎えた。帝塚山には法人本部と「帝塚山学院幼稚園」「帝塚山学院小学校」、女子校の「帝塚山学院中学校高等学校」が置かれている。

「阪南土地区画整理事業」で誕生した住宅地 MAP __

現在の阿倍野区阪南町一帯では、1924(大正13)年から1928(昭和3)年にかけて「阪南土地区画整理組合」により土地区画整理事業が行われた。明治後期より、区画整理を伴う宅地開発は「耕地整理法」を援用して行われていたが、1919(大正8)年、旧「都市計画法」が制定となり「土地区画整理事業」の施行が規定された。1924(大正13)年に認可された「阪南土地区画整理組合」は、旧「都市計画法」による、国内最初の土地区画整理組合となった。「阪南土地区画整理事業」で区画整理された土地は131haに及ぶ。1932(昭和7)年には約4,200戸の住宅が建設され、その多くが長屋形式だった。

写真は1953(昭和28)年、「阪南土地区画整理」の区域内、現在の阪南町四丁目付近から南を撮影したもの。多くの長屋が立ち並ぶ様子が見える。中央左の掘割は大阪市営地下鉄1号線(現・大阪メトロ御堂筋線)。「天王寺駅」までは戦前に開通していたが、以南は戦時中に工事が中断。1950(昭和25)年に工事が再開し、1952(昭和27)年に「西田辺駅」(写真左奥)まで開通した。写真のように、当初は掘割として建設・開通していたが、1958(昭和33)年頃までに蓋が架けられ、現在は地上に「あびこ筋」が通る。
MAP __(西田辺駅)【画像は1953(昭和28)年】

写真は1932(昭和7)年に建設された「寺西家阿倍野長屋」。一時はマンションへの建て替えも計画されたが、歴史的な建築物として保全することになり、2003(平成15)年に国の登録有形文化財となった。2005(平成17)年には向かいの「寺西家住宅主屋」「寺西家住宅蔵」も登録有形文化財となり、現在は改修工事を経て飲食店などが利用している。
MAP __(寺西家阿倍野長屋)

1940(昭和15)年に公園として整備された「万代池」 MAP __

「万代池(まんだいいけ・ばんだいいけ)」は「上町台地」の谷をせき止めて造られた池で、その歴史は不詳ながら、江戸時代には灌漑用のため池と利用されていたという。この池にいた魔物を、聖徳太子が人を遣わし「曼陀羅経」で鎮めたという伝説があり、「まんだら池」が転じて「まんだい池」となったともいわれる。【画像は1921(大正10)年頃】

1924(大正13)年、池の東側に遊園地「帝塚山共楽園」が開園、プールや運動具などが設置され多くの人で賑わった。「万代池」は「帝塚山古墳」と同様に住吉村の大阪市編入後は「住吉村常盤会」の所有となった。1940(昭和15)年、大阪市は「万代池」の周囲に「万代池公園」を開園し現在に至る。外周約700mの池に沿って桜が植えられており、春には花見の名所となる。


『日本のウイスキーの父』竹鶴政孝氏が暮らした帝塚山

竹鶴政孝・リタ夫妻

竹鶴政孝・リタ夫妻【画像は1920(大正9)年頃】

「ニッカウヰスキー」の創業者で、テレビドラマのモデルとしても有名になった、竹鶴政孝・リタ夫妻は若い頃、帝塚山に住んでいた。広島・竹原の酒造業・製塩業を営む竹鶴家に生まれた政孝氏は、「大阪高等工業学校」(現「大阪大学 工学部」)醸造科に学び、洋酒に興味をもち、学校の先輩で「摂津酒造」の常務となっていた岩井喜一郎氏を頼って、1916(大正5)年に酒造メーカーの「摂津酒造」に就職した。政孝氏の実家は、今も「竹鶴酒造」として営業を続けている。

政孝氏は、ウイスキー研究のためにスコットランドに派遣され、「グラスゴー大学」留学中に、知り合ったリタ氏と結婚。帰国後は帝塚山・姫松に新居を構えた。この家の大家は「千島土地」を経営する実業家・芝川又四郎氏で、リタ氏は芝川氏の娘たちに英語を教えていたという。「摂津酒造」があった場所は、住吉区住吉町(現・帝塚山東五丁目)で、政孝氏にとっては職住接近の理想的な立地であった。「摂津酒造」は1964(昭和39)年に「宝酒造」(現「宝ホールディングス株式会社」)へ吸収され、その「大阪工場」となり、その工場も1973(昭和48)年に閉鎖され、跡地は「神ノ木公園」、市営住宅などになっている。
MAP __(神ノ木公園)

政孝氏はスコットランドから帰国するも、「第一次世界大戦」後の不況により、「摂津酒造」は本格ウイスキーづくりの計画を棚上げにした。政孝氏は悩んだ末、1922(大正11)年、「摂津酒造」を退社し、旧制「桃山中学校」(現「桃山学院高等学校」)で教鞭をとった後、翌年に「寿屋」(現「サントリーホールディングス株式会社」)に入社し、本格的にウイスキーづくりを開始する。

一方、リタ氏は「帝塚山学院」で英語の教師を務めて、家計を支えた。その後、1934(昭和9)年に政孝氏は「寿屋」を退社し、「大日本果汁株式会社」(現「ニッカウヰスキー株式会社」)を設立し、北海道・余市町で理想のウイスキー製造に邁進することになる。「大日本果汁」の設立では、芝川又四郎氏も出資、取締役に就任し経営を支えた。


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