「タニマチ」の由来といわれる「薄病院」。【画像は1917(大正6)年頃】
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相撲や力士を援助する大相撲の贔屓筋、スポンサーの意味で使われる「タニマチ」は、「上町台地」の「谷町」に由来するという説が有力。さらに、その大阪・谷町説にも、諸説が存在する。
有力な説は1889(明治22)年、谷町に「薄(すすき)病院」を開院させた薄恕一(じょいち)氏が、はじまりというもの。怪我をした力士を無料で治療したり、幕下力士のために土俵を作って稽古をさせたり、時には小遣いを渡すなど、力士から「タニマチ」と呼ばれ慕われていたという。
「薄病院」では、医療保険制度がなかった時代、貧しい患者は無料とし、裕福な患者には多く払ってもらうことで広く医療を提供した。また、薄恕一氏は「大阪府議会議長」や「大阪市医師会長」などの要職も務めたほか、看護学校などの学校を創設、故郷(現・福岡県古賀市)に図書館を寄贈するなど、社会的な貢献も数多い。「直木賞」で知られる作家となる植村宗一(のちの直木三十五)氏は明治中期に「谷町六丁目交差点」あたりで生まれ育ったが、病弱であった直木三十五氏を、幼少期から医療・経済面で面倒を見たことでも知られる。
江戸時代、全国で寄進を目的とする勧進相撲が行われていた。その後、本来の寄進を目的としない相撲の興業が1702(元禄15)年、大坂の堀江で許可されると、大坂商人の後援を受けた「大坂相撲」が、「江戸相撲」をしのぐ隆盛を誇った。また、東西の交流も盛んで、力士の移籍も行われていた。明治の大横綱として知られる梅ヶ谷藤太郎氏も1867(慶応3)年に大阪から東京に移籍している。
1909(明治42)年に初代の「両国国技館」が開館するなど、東京の勢力が大阪を上回るようになると、1919(大正8)年、大阪市南区(現・浪速区)に「大阪国技館」を開館させるなど対抗するが、その後、東西相撲が合併し、1925(大正14)年には「大日本相撲協会(現「日本相撲協会」)」が誕生した。画像は「大阪国技館」。