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市街に点在した遊園地、市民の娯楽の場

「第五回内国勧業博覧会」の跡地に誕生した「ルナパーク」と「通天閣」は、大阪を代表する市民の娯楽の場となり、「通天閣」は戦前・戦後の建替えを経て、現在も大阪のシンボルタワーとして聳え立つ。大正・昭和戦前期の短期間に存在した「市岡パラダイス」も総合的な大遊園地だった。江戸時代からの歓楽街だった「千日前」「楽天地」も、『食い倒れの街・大阪』を支え続ける飲食街となっている。


「第五回内国勧業博覧会」跡地に「ルナパーク」 MAP __

1903(明治36)年に開催された「第五回内国勧業博覧会」の跡地は、東側は1909(明治42)年に「天王寺公園」となり、西側は大阪財界が出資した会社に貸与され、大阪の新名所「新世界」として、1912(明治45)年に遊園地の「ルナパーク」と「通天閣」が誕生した。これは、ニューヨーク・コニーアイランドの名所「ルナパーク」を参考にしたもので、東京・浅草にその先例があった。「ルナパーク」には、「ホワイトタワー(白塔・写真右)」が建てられて、「通天閣」との間に日本初の旅客用ロープウェイが開設されたほか、温泉やプール、音楽堂、メリーゴーランドなどが設置された。
MAP __(ホワイトタワー)【画像は大正期】

しかし、この「ルナパーク」は営業不振に陥り、1923(大正12)年に閉園となった。跡地は買収され、劇場などに姿を変えた。昭和初期には映画館や大衆食堂、カフェが立ち並ぶ歓楽街へと変貌していく。「ホワイトタワー」は写真中央付近にあった。

写真は「ルナパーク」に設置された「サークリングウェーブ」。上下に波打ちながら回転する遊戯機械であった。前掲の「ホワイトタワー」の写真では左下に写っている。左上にはロープウェイ、右奥には「通天閣」が見える。
MAP __(サークリングウェーブ)【画像は大正期】

「新世界」の名前は、繁華街の商店街名などに残っている。

大阪のシンボルタワー「通天閣」

「新世界」に聳え立つシンボルタワーであり、大阪のランドマークといえる「通天閣」。初代の「通天閣」が誕生したのは1912(明治45)年、高さは当時東洋一の75m。パリの名物である凱旋門の上にエッフェル塔を乗せた姿で、たちまち市民の心を捉えた。塔の下はアーチ型の門になっており、南側にある「ルナパーク」の入口となっていた。また、アメリカから輸入された像「ビリケン」が「通天閣」の守り神となり、現在まで市民に愛されている。初代の「通天閣」は火事の被害を受けた後、「太平洋戦争」時の金属献納運動で解体され、戦後の1956(昭和31)年に二代目の「通天閣」が誕生した。
MAP __(初代)【画像は昭和前期】

初代の「通天閣」は火事の被害を受けた後、「太平洋戦争」時の金属献納運動で解体され、戦後の1956(昭和31)年に二代目の「通天閣」が誕生した。二代目は、初代の場所より若干北側(写真では手前側)に建設された。2012(平成24)年には誕生100周年を記念して全館リニューアルされた。
MAP __(二代目)

5年間の短命に終わった遊園地「市岡パラダイス」

1925(大正14)年、港区の開発を手掛けた「市岡土地株式会社」により、遊園地「市岡パラダイス」が開園した。この遊園地は、約1万2,000坪の広大な敷地に映画館や劇場、日本初の屋内アイススケート場などが点在し、中でも高さ30mを誇る飛行塔が売り物だったが、わずか5年後の1930(昭和5)年に閉園となった。園内にあった劇場などは、その後も単独で営業を続けていたが、「太平洋戦争」の空襲で失われ、最後に残った「パラダイス劇場」も戦後の土地区画整理で姿を消した。

写真は昭和初期の「市岡パラダイス」の正門。
MAP __(正門跡地)【画像は昭和初期】

正門の跡地付近は現在はドラッグストアとなっている。かつての敷地を「中央大通」「阪神高速」(写真左)が貫いており、「パラダイス劇場」の跡地は「MEGAドン・キホーテ 弁天町店」となる。敷地の一画にあたる自動車教習所の1階入口には「市岡パラダイス跡」の案内板が掲示されている。
MAP __(パラダイス劇場跡地)


「千日前」は食と娯楽の街

大正期の「千日前楽天地」

大正期の「千日前楽天地」。
【画像は大正期】

現在は跡地に家電量販店が建つ

現在は跡地に家電量販店が建つ。

難波の東側一帯に広がる「千日前」は、現在は住所や道路名、地下鉄の路線名になっているが、もともとは「千日寺」とも呼ばれた浄土宗の寺院「法善寺」や、現在は移転した「竹林寺」などの門前であり、「千日念仏回向」が行われていたことに由来する。この場所には、「大坂の陣」後の1615(慶長20・元和元)年、町内の墓地を整理して「千日墓地」や刑場が置かれた。

この「千日前」はやがて、見世物小屋や茶屋などが集まる町となり、1870(明治3)年に刑場は廃止、墓地は移転となり商業地として発展する。1912(明治45)年の「ミナミの大火」後には、「難波駅」を開業した南海系列の「千日土地株式会社」がレジャーランドの建設を計画し、「千日前楽天地」が誕生した。「千日前楽天地」は夜のイルミネーションが有名で、劇場のほか、水族館やローラースケート場などを備えていた。周辺にも映画館、演芸場が建つようになり、1930(昭和5)年に「千日前楽天地」は廃業したものの、その2年後には「大阪歌舞伎座」が誕生している。
MAP __(千日前楽天地跡地)

道頓堀にも近い「法善寺」には、「水かけ不動」と呼ばれる「西向不動明王」があり、参道には寄席の「紅梅亭」「金沢亭」が存在したこともあって、参詣の善男善女で賑わった。門前の「法善寺横丁」は、織田作之助の小説『夫婦善哉』で有名になり、『食い倒れの街』らしい店がある場所としても知られ、大阪を舞台にした数々のヒット曲にも登場している。
MAP __(法善寺横丁)



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