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「大坂城」を中心に歴史が動く

室町時代、「上町台地」の北部には、浄土真宗の蓮如により「大坂御坊」が置かれ、これが寺内町をもつ「石山本願寺」に発展した。「石山合戦」で法主顕如が織田信長に敗れた後、羽柴(豊臣)秀吉はこの地に壮麗な「大坂城」を築いた。秀吉没後は「大坂冬の陣・夏の陣」が起こり、「上町台地」一帯は豊臣方と徳川方の合戦の舞台となった。


太閤・秀吉が築城した天下の名城 MAP __ MAP __(乾櫓)

羽柴(豊臣)秀吉が「大坂城」を築く前、ここには「石山本願寺」があり、織田信長の軍との間で「石山合戦」が繰り広げられた。この要害の地に目をつけた秀吉による築城は、「淀川」、「大和川」、「平野川」などに囲まれた壮大な縄張りだったが、「大坂冬の陣・夏の陣」で落城。徳川幕府により再築工事が行われ、幕府直轄の城となった。【画像は昭和戦前期】

重要文化財に指定されている「大阪城」の「乾櫓」。西の丸の西北角に建ち、「千貫櫓」と並んで江戸時代初期から残る、「大阪城」内では最も古い建造物である。

真田信繁(幸村)ゆかりの戦地「真田丸」 MAP __(真田丸顕彰碑)

「真田丸」は1614(慶長19)年、「大坂冬の陣」において、豊臣方の真田信繁(幸村)が「大坂城」平野口の南に構築した出城(曲輪)である。翌年の「大坂夏の陣」を前にした和議により、「真田丸」は破壊された。拡大画像の中央には「真田曲輪」と書かれている。【図は1696(元禄9)年】

「真田丸」は、現在の「大阪明星学園」の地にあった。テニスコートの東側には「真田丸顕彰碑」が建っている。

前方後円墳だった「茶臼山」、「大坂の陣」で両軍の本陣が置かれた MAP __

「茶臼山」は5世紀ごろに作られた前方後円墳で、「大坂城」をめぐって争われた「大坂冬の陣」では徳川家康の本陣となった。翌年の「大坂夏の陣」では真田信繁(幸村)の本陣となり、「茶臼山(天王寺口)の戦い」の舞台となった。明治・大正期には「住友家茶臼山本邸」の一部となった。画像では左側の森が「茶臼山」。【画像は明治後期】

和気清麻呂が開削したといわれる「河底池」とともに、閑静な空間を作り出している「茶臼山」。現在は大阪市の「天王寺公園」の一部となっている。

「大坂夏の陣」で激戦地となった「一心寺」 MAP __

法然上人がこの地で「日想観(じっそうかん)」を修された事に始まる「一心寺」。「大坂夏の陣」では徳川家康の本陣が置かれた激戦地でもある。「大坂夏の陣」の後には、両軍の戦死者の遺骸が葬られ、「大坂夏の陣」で戦死した「丹波篠山藩士14名の墓」など、多くの墓が今も残っている。【画像は明治後期】

1887(明治20)年にお骨佛が造立されて以来、10年分の遺骨をまとめてお骨佛を造立しており、現在は『お骨佛の寺』としても有名になっている。


難攻不落の城として、激戦が繰り広げられた「大坂城」

『大日本読史地図』

『大日本読史地図』【図は1935(昭和10)年出版】

羽柴(豊臣)秀吉が築いた「大坂城」は、「上町台地」の北部を占め、のちに徳川幕府により再建された「大坂城」の約4倍の広さがあったとされる。北側は「淀川」、東側は「東惣構堀」、西側は「西惣構堀」に囲まれ、さらに台地下は湿地帯も多く、三方は比較的強固な天然の要害であった。

「大坂城」の唯一の弱点とされた南側の防御のために作られたのが「南惣構堀」で、巨大な空堀が作られた。現在も残る「空堀通」「空堀商店街」の地名は「南惣構堀」の空堀に由来している。これらの壮大な縄張りを誇る「大坂城」は、難攻不落の城といわれ、再興を期す豊臣家の拠り所となっていた。

徳川軍と豊臣軍が最初に戦った「大坂冬の陣」で豊臣方は二重の堀で囲まれた堅固な城を頼りに戦った。このとき、真田信繁(幸村)は、「大坂城」の防御が手薄であった南方に土作りの出城「真田丸」を築き、徳川方の侵攻を食い止めている。

「大阪冬の陣」の後、和議により城の外堀・内堀が埋められたため、「大阪夏の陣」では、豊臣方は城を出て戦うことを余儀なくされた。真田勢は、「大阪冬の陣」で徳川家康が本陣を置いた「茶臼山」に陣取り、最後の決戦が行われた。両軍は「天王寺・岡山の戦い」で激戦を繰り広げたが、徳川方の勝利に終わり、「大坂城」は落城した。真田信繁(幸村)は「安居神社」で戦死している。

その後、「大坂城」は徳川幕府により再建され、城の南には武家屋敷が置かれ、その西側は町人地となった。南西側は秀吉の時代に、「生國魂神社」が移転、「銀山寺」が創建されるなど、寺町が形成されていたが、徳川の時代にも、市中の寺院が集められ、寺町はさらに発展した。画像は「大坂冬の陣」の軍配備図。


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