このまちアーカイブス INDEX

海辺の賑わいと開発される芝浦

江戸時代、芝浦は美しい景観が広がり、豊かな漁場からは海産物の恩恵を受けた。明治時代以降も潮干狩りや釣りなどの行楽で賑わい、1908(明治41)年には芝浦に係留された船体を利用した「ろせったホテル」が開業した。昭和初期になると「芝浦埠頭」が整備され「東京港」の中心となった。


美しい眺望の本芝「札の辻」 MAP __

江戸時代はじめ、布告法令などを掲示する高札場が設けられていたことから、現在の港区芝五丁目には「札の辻」と呼ばれた場所があった。1616(元和2)年、ここに建てられた「芝口門」は海を隔てて房総の山々が望める景色の美しい場所であり、『一日眺めても飽きない』ことから「日暮御門」とも呼ばれた。その後、1710(宝永7)年に「芝口門」が「新橋」の北側に移転、高札場も高輪に移されたため、「元札の辻」と呼ばれるようになるが、「明治維新」後は元を略し「札の辻」という地名が残った。【画像は江戸後期】

「国道15号」と「三田通り」が交わる「札の辻交差点」は交通量が多い。歴史を記した案内板が設置されている。

月見が楽しめた風光明媚な「牛町」 MAP __

江戸時代初期、「増上寺」の安国殿や「市ヶ谷見附」の石垣普請などに伴い、牛持の労働者を京都から呼びよせ、多くの牛車で重量物を運搬させた。その後、牛車運搬の独占権を得て定住したため、その一帯は「車町」(現・高輪)、通称「牛町」と呼ばれた。「牛町」の目前には海が広がり、月見の名所として、二十六夜待、中秋の名月には多くの人で賑わった。【図は1847(弘化4)年】

「牛町」は現在の都営地下鉄浅草線「泉岳寺駅」付近となる。

大名庭園の姿を今に伝える「芝離宮」 MAP __

回遊式泉水庭園の典型とも言える「旧芝離宮恩賜庭園」は、老中・大久保忠朝が四代将軍の徳川家綱から拝領した土地に築いた庭園を前身としている。1871(明治4)年に有栖川宮家が所有。その4年後に「宮内省」が買上げ、翌年には「芝離宮」となる。1924(大正13)年、東京市に下賜され「旧芝離宮恩賜庭園」として公開されるようになった。【画像は大正期】

周囲には高層ビルが建ち並ぶようになり時代の流れを感じさせるが、園内は当時の趣が残る。

芝浦に誕生した花街

江戸期の本芝一丁目(現在の芝四丁目)付近は、江戸期には海に面する風光明媚な地で「芝浜」とも呼ばれ、江戸末期の切絵図には「鯖江藩間部家中屋敷」も描かれている。明治期になると「芝浜」の新鮮な江戸前の魚介類もあることから、料亭や旅館が立地し賑わうように。明治後期以降には芸妓屋も置かれ、花街として発展した。大正期になると沿岸の埋め立てが進み、眺望が悪くなったため、1920(大正9)年、花街は隣接する埋め立て地へ移転。「関東大震災」後は、ほかの花街から移転してきた業者もあったほか、周辺で「東京港」の築港工事が進められた時期でもあり、多くの人で賑わうようになった。

写真は1928(昭和3)年に開業した料亭「芝浦雅叙園」。創業者・細川力蔵氏の自宅を改装したもので、北京料理を売りとしていた。細川氏は、1931(昭和6)年には目黒に支店として「目黒雅叙園」も開業している。「芝浦雅叙園」の正確な閉店時期は不明だが、少なくとも1940(昭和15)年までは営業していた。跡地はこのあたりの地下を通るJR横須賀線のための「JR東日本 芝浦変電所」となっている。
MAP __(芝浦雅叙園跡地)【画像は昭和戦前期】

細川力蔵氏は「芝浦三業組合」の組合長も務めた、当時の「芝浦花柳界」の中心人物で、「芝浦雅叙園」に隣接する街区に1936(昭和11)年に完成した「芝浦見番」の建設にも尽力した。戦時中に組合は一旦解散し「芝浦見番」の建物は東京都の所有となり、戦後は港湾労働者の宿舎「協働会館」となった。芝浦の花街は戦後に復活し再びにぎわった(組合の事務所は別の建物に設けられた)が、1963(昭和38)年に組合は解散、花街は消滅した。写真は1985(昭和60)年に撮影された「協働会館」。
MAP __【画像は1985(昭和60)年】

この建物は、2000(平成12)年まで「協働会館」として使用された。その後、建物の保存運動があり、東京都から品川区へ建物の譲渡と土地の売却が行われ、改修工事ののち、2020(令和2)年に「港区立伝統文化交流館」(写真)としてオープンした。

明治後期に「芝浜」沖で営業していた「ろせったホテル」

「ロセッタ号」は「ハーランド・アンド・ウルフ造船所」が1880年に建造した汽船(この造船所はイギリス・北アイルランドにあり、1912年に「タイタニック号」を建造したことでも知られる)。1900(明治33)年に日本の船会社が購入し「ろせった丸」として定期航路などで利用され、1904(明治37)年の「日露戦争」では病院船としての任務にもあたった。1908(明治41)年、「芝浜」沖に係留され、「ろせったホテル」として営業を開始した。写真は本芝一丁目(現・芝浦一丁目)に設けられた表門。
MAP __【画像は明治後期】

「ろせったホテル」の表門は写真右のビル付近にあった。この場所は、江戸期には鯖江藩間部家の屋敷があり、明治期より料亭「大光館」となっていた。この一帯は、大正期に芝浦の花街の移転先となる。

「ろせったホテル」の船は、表門から桟橋で300mほど渡った先にあった。船内には洋室56部屋、和室50部屋の客室のほか、宴席場、大広間、遊戯室、海水温浴場などが設けられていた。【画像は明治後期】

写真は「ろせったホテル」の全景。左側が船首で、陸上(表門)方面となる。注目を集めたホテルであったが、1910(明治43)年の「ろせった博覧会」を最後に新聞の記事や広告はなくなり、翌年の新聞記事では、『芝浦の廃物ロセッタ』として東京市の教育研究所の新設候補地の一つとして挙げられているため、1910(明治43)年か、その翌年に廃業したと思われる。
MAP __【画像は明治後期】

現在、「芝浦運河」と「新芝浦運河」が交わる地点付近が、かつて「ろせったホテル」が係留されていた場所となる。

豊かな漁場から埠頭へ変化した芝浦 MAP __(古川可動橋跡)

江戸時代の芝浦は豊かな漁場だった。芝浦で捕れた魚は「芝肴(しばざかな)」と呼ばれ、将軍にも献上されたという。1906(明治39)年、「東京港」の築港のため「第一期隅田川口改良工事」が開始され、芝浦周辺は漁場から埠頭へと整備され始めた。写真中央に見える「古川可動橋」は1930(昭和5)年に開通した汐留と芝浦を結ぶ貨物線の橋梁で、船を通す際は橋桁の一方を跳ね上げるようになっていた。その先に見える多数の倉庫が並ぶ場所が1926(大正15)年に供用が開始された「日の出埠頭」。その後、「芝浦埠頭」「竹芝埠頭」も完成し、1941(昭和16)年に国際貿易港としての「東京港」が開港した。【画像は昭和戦前期】

1986(昭和61)年、貨物線が廃止され、「古川可動橋」も撤去された。この廃線の跡には、「ゆりかもめ」や都道が建設された。写真は「古川可動橋」の跡地に建設された「新浜崎橋」とその上を通る「ゆりかもめ」。


海と陸の交通の要衝 MAP __(開業時の品川駅) MAP __(現在の品川駅)

明治中期の「品川駅」

「品川駅」【画像は明治中期】

日本初の鉄道は、1872(明治5)年9月(旧暦)に新橋横浜間で開業しているが、それに先立つ同年5月(旧暦)、品川~横浜間で仮開業していることから、その際に開設された「品川駅」は、「横浜駅」とともに日本最古の鉄道駅といえる(仮開業当初、途中駅はなかった)。当初の「品川駅」は、「品川宿」の中心地から少し北側に外れた「八ツ山橋」のすぐ北側の海岸沿いにあり、現在より300mほど南側にあった。目前まで海が広がり、『ホームなどは岩床に打ち砕ける海水の飛沫で、客車の窓は全部閉めねばならなかった』という。

「品川宿」の東側は旧「目黒川」の河口部分にあたり、「品川湊」として古くより栄えた。律令時代には、武蔵国の国府・府中の外港となり、結ばれる道も作られた。現在、その古道の想定ルートの一部は「品川みち」と呼ばれている。

江戸時代、『物資は海路、人は陸路』が原則となったが、例外的に江戸から「品川宿」入口の八ツ山下の船着場までは旅客の海上航路が認められた。また「品川湊」以北の「東京湾」内は浅瀬となっているため、品川沖は小型船と大型船の積み替えが行われる場所となり、海路の要衝ともなった。

幕末には、「黒船」の来航を受け、品川沖に江戸の防衛の拠点とした「台場」が未完も含め8か所築かれた。現在、「第三台場」は「東京都立台場公園」として整備されているほか、「御殿山下台場」跡地には「品川区立台場小学校」がある。この「台場」築造の技術は、明治初期、海の上に通された「高輪築堤」築造の際に応用された。

明治中期以降、産業の発展とともに「東京港」の築港を求める声が高まるが、政府の財政難や横浜側の反対もあり見送られた。1906(明治39)年に「隅田川口改良工事」が開始され、浚渫土砂により「日の出物揚場」が作られ、初の接岸施設となった。1923(大正12)年の「関東大震災」で「東京港」の必要性が認められ、本格的埠頭の建設となり、1924(大正13)年に「日の出桟橋」が完成、その後「竹芝桟橋」「芝浦岸壁」も建設され、1941(昭和16)年、正式に国際貿易港としての「東京港」が開港した。



次のページ 戦後の経済成長


MAP

この地図を大きく表示



トップへ戻る