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高度経済成長期の芝エリア

芝エリアは戦後の復興期以降、東京を代表するビジネス街となり、日本の高度経済成長とともに発展した。周辺の多くの会社員が利用する「新橋駅」前には繁華街が形成され、現在では「サラリーマンの聖地」とも呼ばれる。また、「東京モノレール」の開業により、東京の国際的な玄関口となったほか、「東京タワー」や大規模なホテルなどが誕生、現在では外国人も多く訪れる人気の観光地となっている。


東京の発展を象徴するタワーとモノレール MAP __(東京タワー) MAP __(東京モノレール)

関東広域に電波を発信する中継基地として、電波塔「東京タワー」は1958(昭和33)年12月に竣工した。当時、自立式鉄塔としては世界一の高さを誇っていた。「浜松町駅」と「羽田空港」を結ぶ「東京モノレール」は、1964(昭和39)年開催の「東京オリンピック」に合わせ、同年に開業している。【画像は昭和中期】

観光発展の象徴となった「東京プリンスホテル」 MAP __

「東京プリンスホテル」は1964(昭和39)年9月に開業した。同年の「東京オリンピック」はアジア初の開催であり、過去最多の国・地域が参加予定だったため、観光客の宿泊施設不足を補う目的で多くのホテルが開業。緑豊かな「芝公園」エリアに立地し、「増上寺」や「東京タワー」など東京を代表するランドマークに隣接する「東京プリンスホテル」は、格式ある宿泊施設として、国内外の数多くの観光客をもてなし、国際会議も執り行われるなど、訪れる人に心からくつろげる空間を提供している。【画像は1964(昭和39)年】

ヤミ市から発展した「新橋駅」西口

「太平洋戦争」によって大きな被害を受けた「新橋駅」前は、終戦直後に自然発生的にヤミ市が生まれ広がった。西口のヤミ市では、1946(昭和21)年に建物が建設され、「新生マーケット」が誕生した。当初は各商店の看板を総ネオン化するなど、東京随一の明るい商店街を目指したが、火災や周辺商店街の復興などの影響で賑わいは失われ、当時はまだ非合法であった居酒屋が多数集まるようになり、現在まで続く「飲み屋街」として賑わうようになった。写真は1959(昭和34)年の「新橋駅」西口の様子。現在の「SL広場」から北側を望んでいる。 MAP __【画像は1959(昭和34)年】

「新橋駅」の西口の再整備は、1966(昭和41)年に着工、1971(昭和46)年に「西口広場」として完成した。翌年、鉄道開通100年を記念してSL「C11-292号」が設置され「SL広場」と呼ばれるようになった。写真は現在の「SL広場」から北側を撮影したもの。

写真は1965(昭和40)年、「新橋駅」から望む西口(現「SL広場」)。右に見える「新橋ステージ」は1949(昭和24)年の完成で、政治家の街頭演説などが行われた。翌年にはステージ下に場外馬券売場も設けられた。写真の手前には「日本テレビ」の街頭テレビも見える。街頭テレビは、1953(昭和28)年、「日本テレビ」が日本初の民放テレビ放送を始めるにあたり、都内などの人々が集まる場所に約60台設置したもので、「新橋駅」西口には2台設置された。テレビが普及してない時代、民放としてCM収入を得るためには、多くの人々が視聴できる仕組みが必要であった。街頭テレビでは、特に野球、ボクシング、相撲などスポーツの中継が大人気となり、1954(昭和29)年、日本で初めて行われたプロレス中継の力道山の試合の際は、「新橋駅」西口の街頭テレビには2万人ともいわれる群衆が殺到した。街頭テレビが大人気となったことで、番組スポンサーとなる企業も次々に現れ、「日本テレビ」は開局翌年の1954(昭和29)年、早くも黒字化に成功した。【写真は1965(昭和40)年】

写真は現在の「SL広場」で、SLが設置されている場所は「新橋ステージ」の跡地付近となる。待ち合わせなどの人で賑わうほか、多くのイベントの会場としても利用されている。また、「日本テレビ」などテレビ局の街頭インタビューでもよく登場する。

木造長屋建築が密集していた「新橋駅」西口では、防災性や環境改善などを目的として、1961(昭和36)年度から1970(昭和45)年度まで、東京都によって「新橋駅前市街地改造事業」が実施され、1971(昭和46)年に「ニュー新橋ビル」が開業した(写真)。当時としてはモダンなデザインで注目を集めた。 MAP __【写真は1972(昭和47)年】

昭和の雰囲気を色濃く残す「ニュー新橋ビル」の建物だが、老朽化などの理由で「SL広場」一帯とともに再開発が決定。2023年頃の完成を目指している。

芝にあった「日活スポーツセンター」と「日活アパート」 MAP __

戦後、「両国国技館」などが「GHQ」の接収を受けたことから、東京には日本人が使用できる室内競技場がなかった。このため、1947(昭和22)年にボクシングの関係者らが、ボクシングをはじめ、さまざまな室内競技やイベントが行える体育館を計画。資材の鉄骨は、廃止となった飛行場の格納庫の払い下げを受け、翌年に着工。1949(昭和24)年9月、収容人員約1万5千名の東洋一の規模を誇る「東京スポーツセンター」が芝公園に開業した。写真は竣工当時、建物の北東側からの撮影。開業前月の8月、映画会社の「日活」が資金面で協力するため買収することを合意、開業翌月の10月に「日活」直営の「日活スポーツセンター」となった。開業すると、様々な国際的な試合やイベントも開催され大観衆を集めたが、稼働は月10日程度と使用されない日も多かった。「日活」は経営改善のため、1950(昭和25)年10月、当時人気のあったアイススケート場(冬季以外はローラースケート場)を常設。1日平均3,000名、多い時には8,000名もの入場者を集める人気の施設となった。この場所には、終戦頃まで「逓信省」の職員養成機関「逓信官吏練習所」があった。【画像は1949(昭和24)年】

「日活スポーツセンター」は、1955(昭和30)年に閉鎖。跡地には、日本初の高層高級賃貸住宅「日活アパート」が建設され、1957(昭和32)年に竣工した。9階建て1棟、7階建て2棟、約1,000戸からなり、当時の日活のスター・石原裕次郎もここに暮らしていたという。1階には商店街も設けられていた。写真は北西側からの撮影。【写真は1957(昭和32)年】

「日活アパート」は1969(昭和44)年に不動産会社の「秀和」へ売却され、1982(昭和57)年、「秀和」はこの地に大型オフィスビル「芝パークビル」(通称「軍艦ビル」)を建設した。写真は現在の「芝パークビル」で南東側からの撮影。


新橋を代表するグルメの老舗

「新橋玉木屋」

「新橋玉木屋」 MAP __

「新橋 末げん」

「新橋 末げん」 MAP __

江戸時代に「東海道」の往来や寺社への参詣客で賑わい、明治時代には「文明開化」で新しい文化が入ってきた新橋では、江戸時代から明治時代にかけて、食文化も発展した。ここでは、現在も残る江戸~大正期創業の代表的な老舗を紹介したい。

「新橋玉木屋」は江戸時代後期の1782(天明2)年創業の佃煮・煮豆の老舗。創業時から変わらず、「東海道」沿い(現・港区新橋一丁目)に店舗を構えている。創業当初は煮豆のお店であったが、「芝肴」を使った佃煮も人気となった。

1883(明治16)年に「愛宕山」麓に創業した「小西」は、江戸時代初期の1641(寛永18)年、小西弥兵衛が芝口(現・新橋)に開いた、関西の日本酒を運び販売する「下り酒屋」をルーツとしている。明治中期には「愛宕山」にレストラン兼ホテルの「愛宕館」が開業し、外国人も多かったことから、当時はまだ珍しかったワインなどの洋酒も取り扱ったという。現在はワインショップ「あたご小西」として営業している。

「新橋駅」西口駅前の烏森地区に1909(明治42)年に創業した「新橋 末げん」は、政治家の原敬、歌舞伎役者六代目尾上菊五郎など著名人も通った鳥料理店。作家・三島由紀夫も通ったお店で、1970(昭和45)年の「三島事件」で自決する前日には「楯の会」の仲間とともに訪れ「最後の晩餐」としたことでも知られている。

港区新橋四丁目にある「新正堂」は「赤穂事件」で浅野内匠頭が切腹した「一関藩田村家屋敷」跡地に1912(大正元)年に創業した老舗の和菓子店。「切腹最中」は、最中から餡子がはみ出すほど入り、「お詫びの品」としても人気となっている。



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