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商工業の近代化期における芝エリア

明治時代になると、明治政府の政策による「殖産興業」をはじめ、工業・商業・金融といった産業の近代化が進められた。芝エリアにおいても勧工場(かんこうば)の設置、機械化された工場の開設、電気など新しい技術の会社・工場の設立などがあり、日本の近代化と発展の一端を担った。ここでは、当時の特徴的な産業を紹介する。


「芝公園」内にあった「東京勧工場」 MAP __

1878(明治11)年、東京府は龍ノ口(現・丸の内)に、工業振興のため製品を展示・販売する施設として「東京府立第一勧工場」を開設した。当時、陳列販売を行う大型の商業施設は他になく、正札(定価)での販売を行い、現在の百貨店に近い役割を果たしていた。1880(明治13)年に民営化され、1888(明治21)年に「芝公園 六号地」へ移転、「東京勧工場」へ改称した。「東京勧工場」内には、1902(明治35)年末時点で345店が出店し、年間売上高約9万円は東京で2位(1位は銀座の「帝国博品館勧工場」)という人気の大型の商業施設であった。しかし、明治後期より勧工場は急速に衰退、その役目は百貨店が担うように変わっていった。

写真は明治中期の「東京勧工場」。【画像は明治中期】

「東京勧工場」の跡地は「慶應義塾大学芝共立キャンパス」などになっている。

「専売局」の「東京第二煙草製造所」 MAP __

明治中期、煙草製造は機械制手工業へ移行し、産業としての地位を確立させた。1901(明治34)年、『明治のたばこ王』と呼ばれた村井吉兵衛氏が「村井兄弟商会芝工場」を田町三丁目(現・芝五丁目)に開設。1904(明治37)年の「煙草専売制」公布により買収され官有となり「専売局」の「東京第二煙草製造所(芝工場)」に。1939(昭和14)年に発生した火災で焼失、廃止となり、機能は「足立工場」へ移転となった。【画像は明治後期】

現在、「東京第二煙草製造所」の跡地には、「安全衛生総合会館」など「厚生労働省」関連の施設がある。

「東芝」の前身の一つ「芝浦製作所」 MAP __

現在の「東芝」は、発明家・田中久重氏が1875(明治8)年、銀座で設立した電信機関連の「田中工場」を前身の一つとしている。久重氏は、江戸末期に機械式和時計「万年自鳴鐘(まんねんじめいしょう、2006(平成18)年に国の重要文化財へ指定)」を設計・製作したことでも知られる。久重氏の没後、養子の田中大吉氏(二代目久重氏)が事業を引き継ぎ、1882(明治15)年、芝浦に「田中製造所」が設立された。

「田中製造所」は、1893(明治26)年、「三井財閥」の傘下に入り「芝浦製作所」へ改称された。写真は1900(明治33)年の「芝浦製作所」。建物の西(写真では左)に鉄道(のちの東海道線)が通る。「芝浦製作所」は、1939(昭和14)年に「東京電気」と合併し「東京芝浦電気株式会社」となった。【画像は1900(明治33)年】

1984(昭和59)年に「株式会社東芝」へ改称、本社ビルが竣工。写真左奥が現在も本社がある「浜松町ビルディング」。現在は建替事業の「芝浦プロジェクト」が進められており、2030年度に全体竣工予定となっている。写真手前には東海道線・東海道新幹線などが通っており、上空には東京モノレールも通る。

日本の情報通信技術を牽引する「日本電気株式会社」 MAP __

「日本電気株式会社(NEC)」は、1899(明治32)年に岩垂邦彦氏が「ウェスタン・エレクトリック社」との合弁会社として創業した。外国資本との合弁会社設立は国内初。創業当初から官営事業へ電話機・電話交換機を供給、1928(昭和3)年には「NE式写真電送装置」(現在のファクシミリの基礎)を開発した。【画像は1907(明治40)年】

1920(大正9)年、「住友財閥」より資本提携を受け、その後住友グループの一員となる。社名には『日本を代表する電気会社になる』という想いが込められている。写真は1990(平成2)年に完成した「日本電気株式会社」の本社ビル。


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