大塩平八郎は自らの邸で「陽明学」を教える塾「洗心洞」を開いた(現在、跡地は「造幣局」の敷地内)。「洗心洞」跡の北側、「国道1号」沿いには、「大塩の乱 槐(えんじゅ)跡」の碑がある。ここは東組与力・朝岡助之丞の役宅庭跡で、「大塩平八郎の乱」において、「大塩軍」の大砲の砲弾が最初に撃ち込まれた地点である。
MAP __(大塩の乱 槐跡の碑)
江戸時代後期に起きた未曾有の災害「天保の大飢饉」。民の飢餓に対して、救援を提言するも容れられなかった「東町奉行所」の元与力・大塩平八郎は、1837(天保8)年、私塾の門人や民衆と共に蜂起した(「大塩平八郎の乱」)。その舞台となったのが大坂の天満。しかし半日で鎮圧され、米蔵から米を奪って民を救うこともならず、兵火から大坂の五分の一を焼く大火となった(「大塩焼け」と呼ばれる)。