1703(元禄16)年、曽根崎の「露天神社」の森で、天満屋の女郎・お初と醤油屋の手代・徳兵衛が心中した。この悲恋を題材に、近松門左衛門が脚色を加えて書いたのが『曽根崎心中』である。写真は明治後期の「曽根崎新地」。
江戸前期、文字通りの「島」だった堂島を開発して「堂島新地」が造られ、蔵屋敷の役人・米市場の商人が利用する遊廓として栄えた。堂島に「堂島米会所」ができると、「堂島新地」は商業地となり、遊廓は「曽根崎川」(「蜆川」とも呼ばれる)よりも北側の「曽根崎新地」に移った。「曽根崎新地」は江戸期より「北の新地」とも呼ばれ、現在の住所としての「北新地」や、地域名としての「キタ」の由来となったといわれる(「キタ」とカタカナで表記されるようになったのは戦後のことという)。