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繁華街として発展した「北の新地」

江戸前期、文字通りの「島」だった堂島を開発して「堂島新地」が造られ、蔵屋敷の役人・米市場の商人が利用する遊廓として栄えた。堂島に「堂島米会所」ができると、「堂島新地」は商業地となり、遊廓は「曽根崎川」(「蜆川」とも呼ばれる)よりも北側の「曽根崎新地」に移った。「曽根崎新地」は江戸期より「北の新地」とも呼ばれ、現在の住所としての「北新地」や、地域名としての「キタ」の由来となったといわれる(「キタ」とカタカナで表記されるようになったのは戦後のことという)。


「曽根崎新地」から「北新地」へ MAP __

1703(元禄16)年、曽根崎の「露天神社」の森で、天満屋の女郎・お初と醤油屋の手代・徳兵衛が心中した。この悲恋を題材に、近松門左衛門が脚色を加えて書いたのが『曽根崎心中』である。写真は明治後期の「曽根崎新地」。【画像は明治後期】

「曽根崎新地」は現在、高級飲食店街の「北新地」となる。

「露天神社」は、お初にちなんで「お初天神」と呼ばれる。「お初天神」のある商店街は、「曽根崎お初天神通り」という愛称で呼ばれている。

1923(大正12)年に竣工した「堂島ビルヂング」 MAP __

「堂島ビルヂング(堂ビル)」は1923(大正12)年竣工の鉄筋コンクリート造9階建。大阪では最初の複合ビルであり、当時としては、9階建というのは大阪で最も階数の多い建物で、東京の「丸ビル」と並び称された。【画像は昭和初期】

「堂ビル」は、近年、大きな改修がなされたが、躯体は昔と変わらず、同じ場所に立っている。

「曽根崎川」は埋立てられ、「桜橋」は交差点となった MAP __

1909(明治42)年、焼失戸数が11万軒を上回る未曾有の大火「北の大火(天満焼け)」が、大阪北部を襲った。「曽根崎川」(「蜆川」とも呼ばれた)はその瓦礫で埋立てられたため、「曽根崎川」に架かる「桜橋」も橋ではなくなった。かつての「桜橋」は、写真の「桜橋交差点」よりもやや南(写真外右側)にあった。写真は昭和初期の「桜橋交差点」。【画像は昭和初期】

現在の「桜橋交差点」。交差点の西側から東方面を望んでいる。

地図にみる「堂島」付近

地図は1879(明治12)年に発行された『大阪府区分新細図』の「堂島」付近。このあたりにあった薬師堂が地名の由来。「島」の名の通り、かつては「曽根崎川」と「堂島川」に囲まれていた。【図は1879(明治12)年】

地図は1930(昭和5)年に発行された『最新大大阪府市街全図』の「堂島」付近。「曽根崎川」は埋め立てられている。【図は1930(昭和5)年】


茶屋町の「北の九階」

茶屋町の「北の九階」

「北の九階」と呼ばれた「凌雲閣」。【画像は明治後期】

「凌雲閣」といえば、日本の高層建築の先駆けといわれる「浅草十二階」(1890(明治23)年竣工)が思い浮かぶだろう。高さが52mあり、当時としては「雲を凌ぐ」楼閣として名付けられた。実は、その前年の1889(明治22)年に、大阪の茶屋町にあった遊園地「有楽園」の敷地内に、高さが39mの「凌雲閣」が建設されていた。こちらは、9階建てで、視界を遮る高層ビルがなかったため、眺めは大阪市街地一円、さらには「大阪湾」や「淡路島」を見渡すことができたという。

「凌雲閣跡」の碑

「凌雲閣」の跡地の一画には「凌雲閣跡」の碑と説明板が設置されている。跡地を含む一帯では2027年度の完成を目指し「茶屋町B-2地区市街地再開発事業」が進められている。
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「凌雲閣」が完成する前年の1888(明治21)年には、今宮にある遊園地「有宝地」内に高さ31mで5階建てのパノラマタワー「眺望閣」が建設されていた。大阪に誕生した二つ展望塔は大盛況となり、「凌雲閣」は「北の九階」、「眺望閣」は「南の五階」と呼ばれ、人気を競い合った。



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