「大坂七墓(ななはか)」は、江戸期から明治初期にかけて、大坂(大阪)の町の周辺にあった7つの墓所の総称。江戸初期に初代・大坂藩主となった松平忠明(ただあきら)は、街の「大坂の陣」による戦災からの復興を行い、その都市改造の一つとして、墓所の郊外への移転統合を行った。江戸期には、陰暦7月16日の夜から翌日の夜明けにかけて、この七墓を巡拝し供養を行う「七墓巡り」が行われ、庶民の娯楽としても人気があった。
現在「うめきた」のあたりには、天満周辺に散在していた墓所を移転統合した「梅田墓」(「梅田三昧」とも呼ばれた)が置かれていた。地図は1789(寛政元)年発行の『大阪繪圖』の一部。曽根崎村の北(図では下)に「梅田墓」の文字が見える。