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「うめきた」の歴史

2013(平成25)年の「グランフロント大阪」開業以降、人気の街となった「うめきた」。ここでは、このエリアの江戸期からの歴史を紹介する。


「大坂七墓」の一つ「梅田墓」 MAP __

「大坂七墓(ななはか)」は、江戸期から明治初期にかけて、大坂(大阪)の町の周辺にあった7つの墓所の総称。江戸初期に初代・大坂藩主となった松平忠明(ただあきら)は、街の「大坂の陣」による戦災からの復興を行い、その都市改造の一つとして、墓所の郊外への移転統合を行った。江戸期には、陰暦7月16日の夜から翌日の夜明けにかけて、この七墓を巡拝し供養を行う「七墓巡り」が行われ、庶民の娯楽としても人気があった。

現在「うめきた」のあたりには、天満周辺に散在していた墓所を移転統合した「梅田墓」(「梅田三昧」とも呼ばれた)が置かれていた。地図は1789(寛政元)年発行の『大阪繪圖』の一部。曽根崎村の北(図では下)に「梅田墓」の文字が見える。【図は1789(寛政元)年発行】

1874(明治7)年、「梅田墓」のそばに「大阪駅」が開業し、「梅田墓」は1897(明治20)年頃に移転となるが、無縁の墓はこの地に残されたままであった。写真は2008(平成20)年に撮影した、当時の「梅田貨物駅」の一部(踏切の右手)。現在、ここで「うめきた2期地区南街区開発事業」が行われており、2017(平成29)年と2020(令和2)年に行われた再開発に伴う遺跡の調査で、「梅田墓」の埋葬人骨などが発掘された。【画像は2008(平成20)年】

文教エリアとなった「大阪駅」北側 MAP __(大阪府立梅田高等女学校跡地)

明治中期以降、「大阪駅」には私鉄(現在のJR大阪環状線、阪急など)が乗り入れるようになり鉄道の要衝として発展。墓地や水田が広がっていた駅の北側には、明治末期になると、「大阪市立大阪工業学校」(1907(明治40)年開校、現「大阪市立都島工業高等学校」)、「金蘭会女学校」(1907(明治40)年に曾根崎新地から梅田へ移転、現「金蘭会高等学校・中学校」)、「大阪府立梅田高等女学校」(1910(明治43)年に堂島から移転)などが誕生、文教エリアとなった。写真は1914(大正3)年頃の「大阪府立梅田高等女学校」。これらの学校は、「大阪駅」の改良に伴う貨物駅建設のため、大正末期までに、それぞれ別の場所へ移転した。【画像は1914(大正3)年頃】

「梅田貨物駅」から「うめきた」へ

大正期に入ると「大阪駅」は貨物駅としての役割が増大したため、旅客駅と貨物駅を分ける改良計画が立案され、1928(昭和3)年、梅田貨物線が開通、「梅田貨物駅」が開業した。写真は昭和戦前期の「梅田貨物駅」の船渠。「堂島川」と運河で繋がっており、舟運と連携して貨物の集配が行われた。
MAP __(船渠跡地)【画像は昭和戦前期】

「梅田貨物駅」は2013(平成25)年に廃止。梅田貨物線の地下化工事は2023(令和5)年に完成、JRおおさか東線と特急が乗り入れる地下ホーム「大阪駅(うめきたエリア)」が開業した。写真はかつて船渠があった場所の現在の様子。一帯では「うめきた2期地区開発事業」の「グラングリーン大阪」の建設が進められており、2024(令和6)年9月に先行まちびらき、2027年春頃に全体開業予定となっている。

写真は同じく昭和戦前期の「梅田貨物駅」。「梅田貨物駅」のホームの左奥に見える建物は1928(昭和3)年に竣工した「大阪鉄道局」の庁舎。中央奥のビルは、1929(昭和4)年の阪急「梅田駅ビル」の改築で誕生した「阪急百貨店」。
MAP __(ホーム跡地)【画像は昭和戦前期】

「梅田貨物駅」一帯は2002(平成14)年より再開発の検討が始まり、その後、先行開発区域が2010(平成22)年に着工、2013(平成25)年に「グランフロント大阪」(写真中央の「タワーA(南館)」とその左の「タワーB(北館)」などからなる)が開業した。戦前期の写真のホーム付近が「グランフロント大阪」の建設地にあたる。「大阪鉄道局」庁舎として建設されたビルは、1992(平成4)年まで「JR西日本」の本社ビルとして使用されたのち解体。跡地は売却され、2001(平成13)年に「ヨドバシ梅田」が開業、2019(令和元)年には敷地内にホテル・商業施設が入る「ヨドバシ梅田タワー」(「タワーA」の左奥に少し見えるタワー)が完成した。中央奥に見えるビルが「阪急百貨店」の後身である「大阪梅田ツインタワーズ・ノース」。



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