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「トアロード」の名の由来となった「トアホテル」

「トアホテル」に至る南北約1kmの道は、かつては「三ノ宮通」と呼ばれた。「三ノ宮通」は、明治時代から茶屋などの店の並ぶ繁華街だった。現在、この通りは「トアロード」と呼ばれ、「トアロード」西側の「トアウエスト」にはカジュアルファッションの店や各国料理のレストランや喫茶店が並ぶ。


明治末期~大正初期の「三ノ宮通」 MAP __

写真は明治末期~大正初期の「三ノ宮通」で、右の角が「三宮神社」。1868(慶応4)年、このあたりで「備前(岡山)藩兵」の隊列の前を、フランス人水兵2人が横切ったことから小競り合いとなり、銃撃戦へと発展した(「神戸事件」と呼ばれる)。外国軍が一時は神戸中心部を占拠する事態にまで及び、最後には、備前藩士・滝善三郎が一身に責を負って切腹し、事態を収束させた。【画像は明治末期~大正初期】

「三ノ宮通」は現在は「トアロード」と呼ばれている。写真右手、「三宮神社」の境内の角に「神戸事件発生地碑」が設置されている。

戦前神戸屈指の高級ホテル「トアホテル」 MAP __

「トアホテル」は、1908(明治41)年開業の戦前の神戸屈指の高級ホテル。『浜のオリエンタル、山のトア』と並び称された。この西洋建築の設計は、異色の建築家・下田菊太郎による。【画像は大正期】

山に近かったため、「神戸大空襲」では被害を免れたが、惜しくも、1950(昭和25)年、失火により焼失した。【画像は大正期】

「トアホテル」跡地は現在、「神戸倶楽部」(外国人のための社交クラブ)となっている。

レジャー開発の先駆け「六甲山」

「六甲山系」の山々は都市部に近接しており、早くから道路や鉄道、ケーブルカーやロープウェーなどが整備され、自然と親しむことのできるレクリエーションの場として神戸の人々に愛されてきた。今日も、企業の研修施設や個人の別荘、数多くの観光施設・レジャー施設がある。


日本初のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」 MAP __

1901(明治34)年、日本初のゴルフコースが「六甲山麓」に開設された。当初は4ホールだったが、1903(明治36)年に9ホールに拡張。同年、「神戸ゴルフ倶楽部」が発足した。1932(昭和7)年に竣工した新クラブハウスの設計はウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏で、現在も使用されている。【画像は大正後期~昭和初期】

「六甲山」のスケート場 MAP __(瓢箪池)

「六甲山」には、明治の頃から製氷池が幾つも造られ、氷室に保存しておいた天然氷を、春から夏場に切り出して麓の街に提供していた。しかし、昭和初期に電気による機械製氷が広まると製氷池は役目を終え、一部はスケート場となった。地図の位置はその一つである「瓢箪池」。【画像は昭和初期】


「六甲山」開拓物語

グルーム氏を記念した「六甲開祖之碑」

グルーム氏を記念した「六甲開祖之碑」。
【画像は昭和初期】

「六甲山」の開拓は、その眺望の素晴らしさに感銘を受けたイギリス人貿易商、アーサー・ヘスケス・グルーム氏によって始められた。1895(明治28)年、グルーム氏は「三国池」近くに自らの別荘を建設。彼の商館は居留地101番にあったため、別荘も「101番屋敷」「百壱」と呼ばれた。さらに別荘地を外国人に分譲し、ある時期には、「神戸外国人村」と呼ばれるほどであった。その後、日本初のゴルフ場(現「神戸ゴルフ倶楽部」)を設立し、私財を投じて「六甲山」に登山道を整備、植林も進めた。やがてグルーム氏は『六甲市長』という愛称で呼ばれるようになる。
MAP __(三国池)

1912(明治45)年、「六甲山」の高台(標高795.6m、「記念碑台」と呼ばれる)に、グルームの功績を記念する高さ約3mの「六甲開祖之碑」が設置された。ただし、グルーム氏本人は、「私は神様ではない。死んでからにしてくれ」と断ったという。戦時中、この碑は敵国人を称えるものとして、谷に落とされてしまった。戦後になり、1955(昭和30)年に「六甲山の碑」として再建され、グルーム氏の胸像も造られた。
MAP __(記念碑台)

昭和初期になると、「阪急電鉄」と「阪神電鉄」が競って「六甲山」の本格的な開発を進め、六甲一帯は一大避暑地・リゾート地に成長していった。



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