「雪見御所旧跡」の碑は、旧「湊山小学校」の北側、現在の兵庫区雪御所町二丁目にあり、かつて御所の庭石に使われていたと考えられている。
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福原という場所は、前期の「大輪田泊」の港を見下ろすことのできる山麓にある(現・兵庫区)。清盛の時代、この福原にわずか半年間だが、都「福原京」が置かれた。
1180(治承4)年、平清盛は、京都から福原へ遷都を実行し、安徳天皇の「本皇居」を「雪見御所」の北に設けた。平安末期、大寺社は僧兵の軍を抱えて大きな武力集団となっていた。それら宗教勢力や敵対する貴族勢力からの政治的干渉を避け、天皇を地理的にも切り離して自らの武家政権の確立を目論んだのが、遷都の理由の一つである。もし、平家が没落せず、後々まで勢力を拡大していたなら、「鎌倉幕府」ではなく、「福原幕府」の時代が来ていたかもしない。そして、現在の神戸が日本の首都として続いていたかもしれない。
しかし、急な遷都で施設が十分整わなかった上に、貴族たちの反発に遭い、さらには源氏の挙兵が重なったため、わずか5ヶ月間で清盛は「平安京」に都を戻した。さらに翌年、無念の内に清盛は死去する。「福原京」には安徳天皇の「平野殿」(本皇居)や、平清盛の邸宅(「雪見御所」、もしくは「雪御所」)といった壮麗な屋敷が次々と造営されていたが、「源平合戦」の際に、それらはすべて焼き払われた。そのため、「福原京」時代の遺構は地上に残っておらず、碑や町名(雪御所町、上・下祇園町、上・三条町)にその名残りをとどめるのみである。
明治時代に入り、「湊山小学校」の校庭から、土器や礎石が発掘され、「雪見御所」跡と推定され、記念石碑が建てられた。