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兵庫・兵庫港

明治以降、都市の中心は東へと移ったが、かつては兵庫がこの地域の政治・経済の中心地であり、神戸市の江戸期以前の史跡のうちの多くが、この兵庫区に集中している。


「清盛塚」 平安末期、大輪田泊(後の兵庫港)を整備した平清盛のための供養塔 MAP 19

【画像は明治後期】

兵庫港は、古くは大輪田泊または務古の水門とと呼ばれ、貿易港として栄えた。平清盛は、大々的に港を整備し、人工島である兵庫島(経が島)を築き、宋との貿易の拠点とした。しかし、清盛の死後、この地域は源平合戦の激戦地と化す。このため周辺には清盛に関連する旧跡や、命を落とした平家の武者たちの供養塔が多数散在している。


一時期、神戸は「首都」だった

「雪見御所旧跡」

「雪見御所旧跡」この碑は湊山小学校の北側、神戸市兵庫区雪御所町2丁目にあり、かつて御所の庭石に使われていたと考えられている。

福原という場所は、上記の大輪田泊の港を見下ろすことのできる山麓にある(現在の神戸市兵庫区)。清盛の時代、この福原にわずか半年間だが、都(福原京)が置かれた。

1180(治承4)年、平清盛は、京都から福原へ遷都を実行し、安徳天皇の「本皇居」を雪見御所の北に設けた。平安末期、大寺社は僧兵の軍を抱えて大きな武力集団となっていた。それら宗教勢力や敵対する貴族勢力からの政治的干渉を避け、天皇を地理的にも切り離して自らの武家政権の確立を目論んだのが、遷都の理由の一つである。もし、平家が没落せず、後々まで勢力を拡大していたなら、鎌倉幕府ではなく、「福原幕府」の時代が来ていたかもしない。そして現在の神戸が日本の首都として続いていたかもしれない。

しかし急な遷都で施設が十分整わなかった上に、貴族たちの反発に遭い、さらには源氏の挙兵が重なったため、わずか5ヶ月間で清盛は平安京に都を戻した。さらに翌年、無念の内に清盛は死去する。福原京には安徳天皇の「平野殿」(本皇居)や、平清盛の邸宅(雪見御所、もしくは雪御所)といった壮麗な屋敷が次々造営されていたが、源平合戦の際に、それらはすべて焼き払われた。そのため、福原京の時代の遺構は地上に残っておらず、碑や町名(雪御所町、上・下祇園町、上・三条町)にその名残りをとどめるのみである。

明治時代に入り、湊山小学校の校庭から、土器や礎石が発掘され、雪見御所跡と推定され、記念石碑が建てられた。


神戸川崎造船所のガントリークレーン MAP 20

【画像は昭和初期】

【現在の第4船台(川崎重工神戸工場)】

神戸川崎造船所では、民間造船所初の戦艦「榛名」建造のため、1912(大正元)年、川崎造船所第4船台に長さ303m・幅44m・高さ50m のガントリークレーン(gantry crane)を造った。1962( 昭和37)年に解体されるまで、客船鹿島丸、戦艦伊勢、空母瑞鶴、重巡足柄、摩耶を建造した。

和田岬灯台と砲台と和楽園 MAP 21

開港に伴い、航海上の難所だった和田岬への灯台建設が急がれ、1871(明治4)年、イギリス人技師リチャード・ブラントンの設計で木造灯台が竣工。だが、耐久性の問題で、1884(明治17)年に3階建の鉄骨造へと姿を変えた。建替えられた灯台は現存する最古の鉄製灯台である。1963(昭和38)年廃灯し、翌1964(昭和39)年、須磨海浜公園に移設された。白かった外装は赤く塗られ、現在は「赤灯台」と呼ばれている。【画像は明治後期~大正初期】

また、明治中期には和田岬に遊園地が造られ、和田岬から一字とって「和楽園」と呼ばれた。園内には、見晴らしのよい洋風3階建の眺望閣や、日本で最初に海水魚を展示した和楽園水族館、魚釣場、ビリヤード場、茶店などがあり、人々を楽しませた。【画像は和楽園 明治期】


沿岸防備のため、勝海舟の設計によって砲台が建造され、1864(元治元)年に完成した。外部が石造(3枚目の写真)、内部が木造2階建の堅牢な建物(4枚目の写真)。2階に11門と屋上に16門の砲門が設置された。


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