「兵庫港」は、古くは「大輪田泊」または「務古の水門」と呼ばれ、貿易港として栄えた。平清盛は、大々的に港を整備し、人工島である「兵庫島(経が島)」を築き、宋との貿易の拠点とした。しかし、清盛の死後、この地域は「源平合戦」の激戦地と化す。このため周辺には清盛に関連する旧跡や、命を落とした平家の武者たちの供養塔が多数散在している。
明治期以降、都市の中心は東へと移ったが、かつては兵庫がこの地域の政治・経済の中心地であり、神戸市の江戸期以前の史跡のうちの多くが、現在の兵庫区に集中している。
明治期以降、都市の中心は東へと移ったが、かつては兵庫がこの地域の政治・経済の中心地であり、神戸市の江戸期以前の史跡のうちの多くが、現在の兵庫区に集中している。
「兵庫港」は、古くは「大輪田泊」または「務古の水門」と呼ばれ、貿易港として栄えた。平清盛は、大々的に港を整備し、人工島である「兵庫島(経が島)」を築き、宋との貿易の拠点とした。しかし、清盛の死後、この地域は「源平合戦」の激戦地と化す。このため周辺には清盛に関連する旧跡や、命を落とした平家の武者たちの供養塔が多数散在している。
「NATURE STUDIO」の一角にある「雪見御所旧跡」の碑。
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福原という場所は、前期の「大輪田泊」の港を見下ろすことのできる山麓にある(現・兵庫区)。清盛の時代、この福原にわずか半年間だが、都「福原京」が置かれた。
1180(治承4)年、平清盛は、京都から福原へ遷都を実行し、安徳天皇の「本皇居」を「雪見御所」の北に設けた。平安末期、大寺社は僧兵の軍を抱えて大きな武力集団となっていた。それら宗教勢力や敵対する貴族勢力からの政治的干渉を避け、天皇を地理的にも切り離して自らの武家政権の確立を目論んだのが、遷都の理由の一つである。もし、平家が没落せず、後々まで勢力を拡大していたなら、「鎌倉幕府」ではなく、「福原幕府」の時代が来ていたかもしない。そして、現在の神戸が日本の首都として続いていたかもしれない。
しかし、急な遷都で施設が十分整わなかった上に、貴族たちの反発に遭い、さらには源氏の挙兵が重なったため、わずか5ヶ月間で清盛は「平安京」に都を戻した。さらに翌年、無念の内に清盛は死去する。「福原京」には安徳天皇の「平野殿」(本皇居)や、平清盛の邸宅(「雪見御所」、もしくは「雪御所」)といった壮麗な屋敷が次々と造営されていたが、「源平合戦」の際に、それらはすべて焼き払われた。そのため、「福原京」時代の遺構は地上に残っておらず、碑や町名(雪御所町、上・下祇園町、上・三条町)にその名残りをとどめるのみである。
「湊山小学校」は1873(明治6)年創立の古い学校で、1899(明治32)年に雪御所町へ移転していた。1908(明治41)年頃、校舎改築の際に、校庭から多量の土器や瓦、建物の礎石などが発見されたため、かつての御所の庭石と考えられ石を使い「雪見御所旧跡」碑が建立された。「湊山小学校」は2015(平成27)年に閉校、コミュニティ型複合施設として再開発され、2022(令和4)年に「みなとやま水族館」や飲食店、ブルワリー、保育園などからなる「NATURE STUDIO」となった。
開港に伴い、航海上の難所だった「和田岬」への灯台建設が急がれ、1871(明治4)年、イギリス人技師リチャード・ブラントン氏の設計で木造灯台が竣工した。しかし、耐久性の問題から1884(明治17)年に3階建の鉄骨造へと姿を変えた。建て替えられた灯台は、現存する最古の鉄製灯台となる。1963(昭和38)年に廃灯となり、翌1964(昭和39)年に、「須磨海浜公園」へ移設された。白かった外装は赤く塗られ、現在は「赤灯台」と呼ばれている。
MAP __(和田岬灯台跡地)
明治中期には「和田岬」に遊園地が造られ、「和田岬」から一字とって「和楽園」と呼ばれた。園内には、見晴らしのよい洋風3階建の眺望閣や、日本で最初に海水魚を展示した「和楽園水族館」、魚釣場、ビリヤード場、茶店などがあり、人々を楽しませた。
MAP __(和楽園跡地)
「和田岬」には、沿岸防備のため、勝海舟の設計による砲台が建造され、1864(元治元)年に完成した。外部は石造、内部は木造2階建ての堅牢な建物で、2階に11門と屋上に16門の砲門が設置された。 MAP __(和田岬砲台)