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「生田神社」と三宮周辺

神戸の繁華街は時代と共に、場所が変わっている。かつては、行政の中心は兵庫付近であり、神戸一の繁華街は新開地だったが、今は三宮周辺が一番賑わっている。


「生田神社」の鳥居と参道

「生田神社」は、海外外征の帰りにこの地に立ち寄った神功皇后(第14代天皇である仲哀天皇の皇后)によって創建されたといわれる。周辺の村はかつて、「生田神社」の社領であり、税は「生田神社」に納められた。そのため村は「神戸(かんべ・戸は家の意味)」と呼ばれ、やがて神戸(こうべ)となった。写真は「生田神社」の一の鳥居で、現在のJRの高架下付近から写したもの。石の鳥居や灯篭は1945(昭和20)年の「神戸大空襲」で失われた。
MAP __【画像は明治後期~大正初期】

写真は現在の同地点付近の様子。現在の一の鳥居は、JRの線路よりも少し南に下った場所に置かれている。
MAP __(現在の一の鳥居)

明治後期~大正初期の「三ノ宮停車場」 MAP __

開業当初の「三ノ宮停車場」は、現在の「元町駅」の場所にあったが、1931(昭和6)年、「三ノ宮駅」を高架駅にするため、駅の位置を東に約600m移動し、現在の場所となった。駅を失った地元は駅の再設置を請願、1934(昭和9)年に「元町駅」が開業した。写真は明治後期~大正初期、旧「三ノ宮駅」を東側から撮影したもの。【画像は明治後期~大正初期】

現在の「元町駅」を東側から撮影。前述のような経緯もあり、「三宮神社」は「三ノ宮駅」より「元町駅」の方が近くにある。

阪神「三宮駅」と「そごう 神戸店」 MAP __

写真の右の道は「滝道」で、中央の建物は「そごう 神戸店」。1933(昭和8)年、阪神「三宮駅」は地下化され日本最大級の地下駅となり、地上にはターミナルビルが建設され、そのテナントとして「そごう 神戸店」が開業した。【画像は昭和初期】

写真は現在の同地点付近の様子で、「滝道」は「フラワーロード」と呼ばれている。阪神「三宮駅」は2014(平成26)年に「神戸三宮駅」へ改称され、「そごう 神戸店」は2019(令和元)年に「神戸阪急」となった。

「神戸阪急ビル」の建設 MAP __

1936(昭和11)年、阪急は三宮に「神戸駅」を開業、この時、写真の「神戸阪急ビル」(通称「阪急会館」)が建設された。このビルは「阪神・淡路大震災」で被災し取り壊され、跡地には仮設の商業施設が建設された。駅名は1968(昭和43)年に「三宮駅」、2013(平成25)年に「神戸三宮駅」に改称されている。【画像は昭和初期】

「神戸阪急ビル」の跡地は、震災から約20年後、2017(平成29)年に新ビルが着工となり、2021(令和3)年に地上29階建ての高層ビル「神戸三宮阪急ビル」が完成、駅コンコース周辺および高架下には商業施設「EKIZO 神戸三宮」が開業した。低層部はかつての「神戸阪急ビル」のデザインが継承されている。


激戦地となった「生田の森」

「摂津国花熊城図」に基づき作画

「摂津国花熊城図」に基づき作画

「生田神社」の北にはかつて、楠が茂る「生田の森」が、旧「生田川」(現「フラワーロード」)まで広がっていた。清少納言の『枕草子』にも『杜(もり)は生田の杜』と記されるなど、平安貴族にも知られていた。『秋風に またこそとはめ 津の国の 生田の森の春のあけぼの』という鎌倉時代の順徳院の歌碑が、「生田神社」の境内に置かれている(『春の曙の頃訪れたが、秋風の頃にまたきっとこの生田の森に訪れたい』)。

「生田の森」は、神戸における「源平合戦」の開戦の地。梶原景時は、一度敵地に攻め、形勢不利で退却した後、息子が取り残されたことを知ると単身敵陣に再突入して、子を救出した(「梶原の二度駆け」)。

現在の「生田の森」

現在の「生田の森」。「生田神社」の北側に広がる。
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戦国時代、織田信長に対して謀反を起こした荒木村重が、「花隈城(花熊城)」に篭城した際、攻撃側の池田恒興の次男・池田輝政が「生田の森」に布陣した。現在、「生田の森」は市街地に囲まれつつ、かろうじて残っている。



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