江戸期に「江戸城」と「寛永寺」を結ぶ道は、徳川将軍が参詣の際に利用する御成道であった。その御成道のうち、「寛永寺」の門前付近は、1657(明暦3)年の「明暦の大火」後に、火除け地として道幅を広げて「下谷広小路(上野広小路)」となった。もともと「寛永寺」の門前町として茶屋などがあった場所で、拡幅により広大な空き地が誕生すると、次第に仮設の見世物小屋や屋台などが集まるようになり、広小路の両側の店とともに、江戸有数の賑わいの地へ発展した。前掲の切絵図で広小路の広さや位置が確認できる。
「上野の山」は「上野台地」とも呼ばれ、湯島などがある「本郷台地」との間の谷地となる「不忍池」付近は、その東に広がる「上野山下」の低地も含めて「下谷」と呼ばれた。江戸期の「下谷広小路(上野広小路)」は飲食店や商店が立ち並ぶ江戸有数の繁華街として発展した。明治期以降も「上野広小路」と日本橋・浅草を環状で結ぶ馬車鉄道が開通、老舗「松坂屋」が百貨店となるなど賑わいは続いた。戦後には、ヤミ市から「アメ横」の商店街が生まれた。