「東京大正博覧会」の際、「不忍池」に架けられたロープウェイ。
【画像は1914(大正3)年】
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『文化の杜』『文化の森』は「上野公園」を表す言葉として、昭和30年代頃から出版物などで使われるようになったといわれる。「上野の山」は江戸時代の頃も文化的な地であったが、明治期以降に東京を代表する文化の中心地となった理由の一つとして「上野公園」で開催されてきた多くの博覧会の存在が挙げられる。
「上野公園」では、1877(明治10)年開催の「第一回内国勧業博覧会」を皮切りに昭和期まで数多くの博覧会が開かれた。代表的なものとしては、1881(明治14)年の「第二回内国勧業博覧会」、1907(明治40)年の「東京勧業博覧会」、1914(大正3)年の「東京大正博覧会」、1922(大正11)年の「平和記念東京博覧会」、1928(昭和3)年の「大礼記念国産振興東京博覧会」、1930(昭和5)年の「海と空の博覧会」などがある。博覧会の名称には、「勧業」「平和記念」「国産振興」「海と空」など、当時の世相を表すキーワードが用いられている。
こうした博覧会は、国産品の品質・生産技術の向上、国内外の最新の産業や文化の紹介などを目的としていたため、情報・文化の発信地としても機能した。また、水族館、電車、ウォーターシュート、観覧車、ロープウェイ、エスカレーターなど、国内初、あるいは国内最初期の施設や乗り物も用意され話題となり、機械やレジャーなどの産業の発展にも貢献した。
博覧会ではその都度、仮設の建築物(パビリオン)が造られたが、「第二回内国勧業博覧会」の時の「博物館(上野博物館)」のように開館前の建物を展示施設として使用した例、「東京勧業博覧会」の「外国館」のように博覧会を契機に本格的な建物が建設された例もあった。また、博覧会で使用した仮設の建築物や遊具を、ほかの遊園地などに移築・移設し使用した例もあったという。
「上野公園」には、このページの写真で紹介した以外にも、1889(明治22)年に「東京美術学校(現・東京藝術大学 美術学部)」、1926(大正15)年に「東京府(現・都)美術館」、1931(昭和6)年に「東京(現・国立)科学博物館」、1961(昭和36)年に「東京文化会館」などが誕生している。こうした多くの文化的な施設の集積により『文化の杜』が形成されている。