「御影町本通り」の様子。【画像は1911(明治44)年】
灘という言葉は、潮目の激しい海の難所のことで、この地域では古くは芦屋・打出から兵庫までの広い海岸を指していた。
江戸時代に、灘は酒の産地として全国的に有名となり、「灘五郷」という名称が生まれた。現在は「西郷」、「御影郷」、「魚崎郷」、「今津郷」、「西宮郷」を「灘五郷」と呼んでおり、現在の東灘区内には、「魚崎郷」と「御影郷」が存在する。
「櫻正宗」(「魚崎郷」)の山邑家は、元は伊丹にあった老舗酒造家。六代目山邑太左衛門は、酒造りに適した「宮水」を発見、さらに現在全国に広まっている酒銘である「正宗」の名付け親(元祖)として、その後の酒造りに大きな影響を与えた。また、山邑家の山邑太三郎は、1910(明治43)年から当時の武庫郡魚崎村長、町制施行を経て魚崎町長を、合わせて2期務め、地域の発展を支えた。
「御影郷」の「菊正宗」は本嘉納、「白鶴」は白嘉納という同じ一族の経営である。二代目御影町長も務めた、「菊正宗」の八代目嘉納治郎右衛門は、現在全国でも有名な、旧制「灘中学校」の代表者として、「白鶴」の嘉納家と「櫻正宗」の山邑家とともに、設立のために尽力した。さらに、灘地方に酒造業者の金融機関として設立された「摂州灘酒家銀行」の後を受け、「灘商業銀行」を設立。1923(大正12)年に業務を開始し、死没するまで長く頭取として地域に貢献し続けた。「白鶴」の七代目嘉納治兵衛は1933(昭和8)年に建設された「御影公会堂」の建設費の大半を寄付したことでも知られる。さらに、1934(昭和9)年に開館された「白鶴美術館」の設立にも尽力するなど、多くの面で地域貢献を果たした。
こうして酒造家たちは、家業を展開させるとともに、地域の文化・経済的な発展にも大きな力を注いでいったのである。