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地域文化・経済の発展に寄与した酒造家

江戸時代以降、酒造を中心に事業を発展させた「櫻正宗」の山邑家、「菊正宗」の嘉納(本嘉納)家、「白鶴」の嘉納(白嘉納)家といった酒造家たちは、地域の文化・経済的な発展にも大きく貢献した。現在も当時の面影を伝える建造物が見られるほか、その文化的な価値の高さから文化財に指定されているものもある。


フランク・ロイド・ライト設計 国の重要文化財 MAP __

「灘五郷」の一つ、「魚崎郷」の酒造家、八代目山邑太左衛門の別邸として、「芦屋川」を望む「六甲山地」の南斜面に1924(大正13)年に竣工。「旧帝国ホテル」などを手掛けたフランク・ロイド・ライトの設計で、1974(昭和49)年に国の重要文化財に指定された。【画像は大正期】

1947(昭和22)年に「株式会社淀川製鋼所」の所有となり1989(平成元)年から「ヨドコウ迎賓館」として一般公開されている。

昭和9年開館の美術館 中国青銅器・陶磁器収集で有名 MAP __

茶人でもあった「白鶴酒造」七代目嘉納治兵衛(鶴翁)は、多くの人々の鑑賞、研究に役立つことを願い、嘉納(白嘉納)家が収集した美術品を展示するため、1934(昭和9)年に「白鶴美術館」を開館した。【画像は昭和前期】

私立美術館の先駆けともなった「白鶴美術館」は、古代中国の青銅器や中国陶磁器などのコレクションで知られ、本館建物は登録有形文化財となっている。

酒造家の寄付で建設された「御影町公会堂」 MAP __

1933(昭和8)年に建設された「御影町公会堂」。地上3階、地下1階建てで、800人収容の大ホールや食堂を有していた。建築費は、当時の額で24万円ほどで、その大半にあたる20万円が「白鶴酒造」七代目嘉納治兵衛(写真左上の人物)の寄付によるものだったという。【画像は1936(昭和11)年】

1950(昭和25)年の御影町と神戸市の合併にともない「神戸市立御影公会堂」へと名前を変えた。

「灘中学校・高等学校」灘の酒造家らによって設立 MAP __

灘の酒造家である両嘉納家、山邑家の篤志で1927(昭和2)年に旧制「灘中学校」として創立。創立にあたり、嘉納家の親戚で、柔道の「講道館」創始者・館長であった嘉納治五郎に顧問を依頼、その愛弟子にあたる眞田範衛を初代校長に迎え、翌年に開校した。【画像は昭和前期】

戦前は柔道部の活躍でも知られたが、戦後は「東京大学」や名門大学の医学部などへと進学する全国屈指の名門校の一つとなった。


「灘五郷」と地域の発展

「御影町本通り」の様子

「御影町本通り」の様子。【画像は1911(明治44)年】

灘という言葉は、潮目の激しい海の難所のことで、この地域では古くは芦屋・打出から兵庫までの広い海岸を指していた。

江戸時代に、灘は酒の産地として全国的に有名となり、「灘五郷」という名称が生まれた。現在は「西郷」、「御影郷」、「魚崎郷」、「今津郷」、「西宮郷」を「灘五郷」と呼んでおり、現在の東灘区内には、「魚崎郷」と「御影郷」が存在する。

「櫻正宗」(「魚崎郷」)の山邑家は、元は伊丹にあった老舗酒造家。六代目山邑太左衛門は、酒造りに適した「宮水」を発見、さらに現在全国に広まっている酒銘である「正宗」の名付け親(元祖)として、その後の酒造りに大きな影響を与えた。また、山邑家の山邑太三郎は、1910(明治43)年から当時の武庫郡魚崎村長、町制施行を経て魚崎町長を、合わせて2期務め、地域の発展を支えた。

「御影郷」の「菊正宗」は本嘉納、「白鶴」は白嘉納という同じ一族の経営である。二代目御影町長も務めた、「菊正宗」の八代目嘉納治郎右衛門は、現在全国でも有名な、旧制「灘中学校」の代表者として、「白鶴」の嘉納家と「櫻正宗」の山邑家とともに、設立のために尽力した。さらに、灘地方に酒造業者の金融機関として設立された「摂州灘酒家銀行」の後を受け、「灘商業銀行」を設立。1923(大正12)年に業務を開始し、死没するまで長く頭取として地域に貢献し続けた。「白鶴」の七代目嘉納治兵衛は1933(昭和8)年に建設された「御影公会堂」の建設費の大半を寄付したことでも知られる。さらに、1934(昭和9)年に開館された「白鶴美術館」の設立にも尽力するなど、多くの面で地域貢献を果たした。

こうして酒造家たちは、家業を展開させるとともに、地域の文化・経済的な発展にも大きな力を注いでいったのである。



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