新築された「灘購買組合」本部前での様子。【画像は1933(昭和8)年】
住吉周辺には官営鉄道に続いて、1905(明治38)年に阪神本線が開通した。これと同時期に、後の「日本住宅株式会社」社長の阿部元太郎と「住友銀行」初代支配人の田辺貞吉が、住吉村の観音林、反高林(たんたかばやし)一帯、約1万坪の山林を村から借り受けた。上下水道や井戸を整備し、住宅地として開発して以降、この地には財界人たちが次々と移り住み、高級住宅地として発展する。そんな中、住民たちによって子女の教育のための施設が計画され、「神戸商業学校」校長の経験があった平生釟三郎などが創立に携わり、1911(明治44)年に「甲南幼稚園」が、翌年には「甲南小学校」が開校した。
1912(明治45)年には、住民同士の交流やまちづくりを考える場として、日本初の地域コミュニティともいわれる「観音林倶楽部」が設立される。「観音林倶楽部」の会員は、それぞれ私財を投じて「甲南学園」などの教育事業や「灘購買組合」(現「生活協同組合コープこうべ」)といった生協組織も展開していった。
「灘購買組合」は、1921(大正10)年に那須善治により創設された。「社会事業にお金を投資したい」と考えていた那須は、平生釟三郎に相談し、当時「神戸購買組合」設立に尽力していた賀川豊彦を紹介される。これをきっかけに「観音林倶楽部」で話し合いが行われ、「灘購買組合」は設立された。組合は「観音林倶楽部」の会員が中心であったが、当時周辺より高かった住吉村の物価を下げ、元来の住民にも良い結果となったという。その後、1962(昭和37)年には「神戸購買組合」から発展した「神戸生活協同組合」と合併、1991(平成3)年に「生活協同組合コープこうべ」と改称している。