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住吉・御影周辺の邸宅地としての発展

現在の神戸市東灘区には、1950(昭和25)年までは住吉村、御影町、魚崎村、本庄村、本山村の五ヶ町村が存在した。特に御影町や住吉村一帯は高級住宅地として知られ、関西の財界人や有力者が豪華な邸宅や別邸を構えた。現在も一部の邸宅のほか、当時整備された施設が様々な形で残っている。


「西本願寺」法主、大谷光瑞の別邸 3本ものケーブルカーを設置 MAP __

1909(明治42)年、「六甲山」に「西本願寺」22世法主、大谷光瑞の別邸「二楽荘」が建造された。本館は贅を尽くした建物として、大きな話題となった。総面積約24万6千坪の敷地に3本ものケーブルカーまで存在したという。1932(昭和7)年に火災で焼失した。【画像は大正期】

「二楽荘」の本館前には、広い洋風庭園が設けられ、屋内からも瀟洒な風景を楽しむことができたという。【画像は大正期】

「甲南学園」明治末期に幼稚園が誕生 MAP __(甲南小学校) MAP __(甲南大学)

「甲南学園」の歴史は、住吉にある「甲南幼稚園」から始まった。この地に移り住んだ関西の実業家らの子女の教育を目的として、1911(明治44)年に幼稚園、1912(明治45)年に小学校が設立された。その後、1919(大正8)年に、旧制「甲南中学校」が岡本に開校し、大学・中学・高校からなる現在の「学校法人甲南学園」の源流となった。【画像は1941(昭和16)年頃】

現在、幼稚園・小学校は、別法人として運営しているが、それぞれが創立者である平生釟三郎の理念と遺志を現代へ受け継いでいる。写真は岡本にある「甲南大学」1号館の様子。

銀行家・山口吉郎兵衛の邸宅 現在は陶器などを展示する「滴翠美術館」に MAP __

大阪を代表する銀行家であった山口吉郎兵衛は、頭取であった「山口銀行」が合併して、「三和銀行」(現「三菱UFJ銀行」)となったのを機に財界を離れ、陶器、人形、羽子板、カルタといった美術品の研究と収集に没頭した。邸宅の設計は安井武雄によるもので、現在ではモダニズム建築としても評価されている。【画像は昭和前期】

山口翁の雅号である「滴翠(てきすい)」を冠した「滴翠美術館」は、邸宅の一部が改装され1964(昭和39)年に開館。彼のコレクションを展示している。


住吉の地域コミュニティ 「観音林倶楽部」と「灘購買組合」

新築された「灘購買組合」本部前での様子

新築された「灘購買組合」本部前での様子。【画像は1933(昭和8)年】

住吉周辺には官営鉄道に続いて、1905(明治38)年に阪神本線が開通した。これと同時期に、後の「日本住宅株式会社」社長の阿部元太郎と「住友銀行」初代支配人の田辺貞吉が、住吉村の観音林、反高林(たんたかばやし)一帯、約1万坪の山林を村から借り受けた。上下水道や井戸を整備し、住宅地として開発して以降、この地には財界人たちが次々と移り住み、高級住宅地として発展する。そんな中、住民たちによって子女の教育のための施設が計画され、「神戸商業学校」校長の経験があった平生釟三郎などが創立に携わり、1911(明治44)年に「甲南幼稚園」が、翌年には「甲南小学校」が開校した。

1912(明治45)年には、住民同士の交流やまちづくりを考える場として、日本初の地域コミュニティともいわれる「観音林倶楽部」が設立される。「観音林倶楽部」の会員は、それぞれ私財を投じて「甲南学園」などの教育事業や「灘購買組合」(現「生活協同組合コープこうべ」)といった生協組織も展開していった。

「灘購買組合」は、1921(大正10)年に那須善治により創設された。「社会事業にお金を投資したい」と考えていた那須は、平生釟三郎に相談し、当時「神戸購買組合」設立に尽力していた賀川豊彦を紹介される。これをきっかけに「観音林倶楽部」で話し合いが行われ、「灘購買組合」は設立された。組合は「観音林倶楽部」の会員が中心であったが、当時周辺より高かった住吉村の物価を下げ、元来の住民にも良い結果となったという。その後、1962(昭和37)年には「神戸購買組合」から発展した「神戸生活協同組合」と合併、1991(平成3)年に「生活協同組合コープこうべ」と改称している。



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