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「住吉・芦屋のなりたち」写真館


「六甲山地」から流れる天井川 「石屋川」

「六甲山地」から流れ出る「石屋川」は、付近に「御影石」を加工する石材店が並んでいたのが川名の由来とされる。この写真の左手には、清酒の看板が写っている。【画像は明治後期】

「石屋川」の中流域は天井川であったため、阪神間の官営鉄道敷設時に日本初の鉄道トンネル「石屋川隧道」が建設され1871(明治4)年に完成、1874(明治7)年の鉄道開通で供用開始となった。写真は1874(明治7)年撮影の「石屋川隧道」。
MAP __(石屋川隧道跡地)【画像は1874(明治7)年】

1919(大正8)年、複々線化工事の際、跨線水路橋を建設しその上に「石屋川」を通すようになり、トンネルは解体された。さらに1976(昭和51)年、高架化に伴い水路橋の下は埋め立てられた。写真は2003(平成15)年に建立された「旧石屋川隧道跡」の碑。

「兵庫県御影師範学校」の跡地は大型商業施設に MAP __

「兵庫県師範学校」は1874(明治7)年に神戸に設置された「兵庫県師範伝習所」を起源とし、1899(明治32)年、武庫郡御影町(現・東灘区)の新校舎へ移転、1901(明治34)年に「兵庫県御影師範学校」へ改称した。写真は大正前期、「兵庫県御影師範学校」時代の様子。サッカーの強豪校としても知られ、「全国高等学校サッカー選手権大会」の前身「日本フットボール優勝大会」で7回、「全国中等学校蹴球選手権大会」で4回、計11回優勝という、現在に至るまで最多となる記録も持つ。1936(昭和11)年に「姫路師範学校」と統合され旧校名の「兵庫県師範学校」へ戻り、1943(昭和18)年に官立(国立)の「兵庫師範学校」となった。【画像は大正前期】

戦後の1949(昭和24)年、新制「神戸大学」へ包括され「教育学部」(現「国際人間科学部」)の母体に。御影の校地は「御影分校」となったのち、1963(昭和38)年に「六甲台地区」へ移転。跡地は神戸市が購入し、同年「神戸市立御影工業高等学校」が開校した。その後、学校統合のため2007(平成19)年に閉校、跡地では再開発事業が行われ、2008(平成20)年に大規模商業施設「御影クラッセ」がオープン、2010(平成22)年には「御影タワーレジデンス」も完成した。

住吉などで行われていた地引網漁 とったイワシは肥料に

十六世紀の末頃から、イワシ(干鰯)は綿花栽培などに効果的な肥料となり、この地域の浜でとれたイワシも大阪の干鰯問屋に送られていた。阪神間の地域でもこうしたイワシなどの小魚をとる地引網漁が行われていた。【画像は明治後期】

阪神「芦屋駅」に停車する電車 MAP __

1905(明治38)年、「出入橋駅」(現在の「梅田駅」の西側付近)~「神戸駅」(現「神戸三宮駅」)間の阪神本線が開通し、同時に「芦屋駅」が開業した。電車の左側には、「芦屋川」に架かる橋の欄干が見えるほか、右側には「芦屋遊園(地)」の看板が写っている。【画像は明治後期~大正期】

写真は現在の阪神「芦屋駅」。現在は6両編成分のプラットホームが「芦屋川」を跨ぐ形で設置されている。

関西で最初の海水浴場「打出浜」 MAP __

「阪神電鉄」は、1905(明治38)年の春に阪神本線を開通させると、沿線の観光開発も行った。同年夏には「南海鉄道」(現「南海電鉄」)の「浜寺海水浴場」と並び関西最初の海水浴場となる「打出浜海水浴場」を開設した。白砂青松の景観と「打出」という縁起のいい地名で売り出し、海岸には写真のように海の家が建ち並んだ。しかし「打出浜」は牡蠣の殻や崩れた築堤の残骸などが多く海水浴向きでないことがわかり、1907(明治40)年以降は西宮の「香櫨園海水浴場」を開設するようになった。【画像は明治後期】

「打出浜」を含む一帯は、かつての打出村(1889(明治22)年以降は精道村大字打出)となる。打出の地名は「打出の小槌伝説」に由来しているともいわれ、「打出駅」周辺の住所は打出小槌町となっている。「打出浜」「芦屋浜」一帯では1969(昭和44)年に「芦屋浜シーサイドタウン」の埋め立て工事が始まった。写真はかつて「打出浜」があった場所の現在の様子。松並木や昔の防波堤が、かつて海岸線であったことを伝えている。


『阪神間モダニズム』と東灘区・芦屋市

谷崎潤一郎氏の旧居「倚松庵」

『細雪(ささめゆき)』も執筆された谷崎潤一郎氏の旧居「倚松庵(いしょうあん)」。
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大阪と神戸という二つの都市に挟まれたこの地域は、もともと地域住民の文化的な意識も高く、神戸の開港以降は、外国の文化も伝わり、さらに資産家や芸術家らが移り住んだことで豊かな文化的土壌が育まれてきた。1990年代、地元の研究者や学芸員がそうした文化を『阪神間モダニズム』と名付け、研究や発表・展示が行われるようになった。この「阪神間」の定義には諸説あるが、主に二つの都市に挟まれた尼崎・西宮・伊丹・宝塚・芦屋の各市を指し、戦前は独立した町村(御影町・住吉村・魚崎町など)だった神戸市東灘区も含まれている。

1990年代当時は、この地域には主に大正・昭和戦前期に建てられた建造物がまだ多く残っており、こうした建造物を再評価・保存する動きとなって現れた。しかし、1995(平成7)年に発生した「阪神・淡路大震災」は、歴史的建造物に多大な被害を与え、地域に残された芸術作品にも危機が訪れた。そうした被害からの救済・復興も必要となり、作家や作品の再評価も行われたが、かなりの建造物が安全上の理由もあって取り壊されている。

『阪神間モダニズム』を代表する建造物として、この地域(東灘区・芦屋市)に残るものは「旧山邑邸」「滴翠美術館」「白鶴美術館」「御影公会堂」などがある。また、この地域で活躍した芸術家として、作家の谷崎潤一郎氏、画家の小出楢重氏、写真家の中山岩太氏、作曲家の貴志康一氏らがいる。



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