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千住の文化と暮らし

1624(寛永元)年、江戸から日光へ向かう「日光街道」の整備が始められ、翌年に「千住宿」が宿場町として建設された。交通量が増大すると人口も増加。米や野菜、魚などを取り扱う市場も形成され商業が盛んになっていくとともに、文化の集積地としても発展した。


千住の地名の由来といわれる千手観音立像が祀られる「勝専寺」 MAP __

「勝専寺」は、1260(文応元)年創建と伝わる「浄土宗」の寺院。1327(嘉暦2)年に「入間川」(のちの「荒川」、現「隅田川」)で引き揚げられたといわれる千手観音立像が祀られている。高さ23.8㎝の小さな仏像で制作年代は不明だが、千住の地名の由来になったともいわれる。江戸時代に「日光街道」が整備されると、徳川家の御殿が造営されるなど、将軍家ゆかりの寺院となった。朱塗りの山門は幕府に許可された特別なもので、「赤門寺」とも呼ばれている。写真は1910(明治43)年頃の「勝専寺」。【画像は1910(明治43)年頃】

「勝専寺」の境内にある「閻魔堂」には1789(寛政元)年作と伝わる閻魔王座像が安置されており、1月15日と16日、7月15日と16日に開帳され、「閻魔詣で」として縁日が開かれる。

千住の「やっちゃ場」

千住河原町一帯は、「やっちゃ場」と呼ばれた青物市場が形成された町。江戸初期には市場が形成されていたといわれ、江戸中期の1735(享保20)年、幕府の「御用市場」となった。千住は背後に広大な農村地帯を控え、陸運・水運の要衝であったことから、「やっちゃ場」は神田・駒込と並び「江戸の三大市場」の一つに数えられた。「やっちゃ場」の語源は、「やっちゃ、やっちゃ」という野菜のセリのかけ声からといわれる。写真は明治後期~大正期の「やっちゃ場」の様子。【画像は明治後期~大正期】

戦時中の1945(昭和20)年、「やっちゃ場」と「東京北魚市場」が統合され、千住橋戸町に「中央卸売市場 足立分場」が開設された。戦後、「足立分場」(現「足立市場」)は取扱量の増加に伴い拡張され、1979(昭和54)年には足立区入谷に「北足立市場」が開設となり、江戸期の「やっちゃ場」からの伝統を引き継いでいた青果部門は移転となった。写真はかつての「やっちゃ場」の中心地付近に整備された「千住宿歴史プチテラス」前の様子。
MAP __(撮影地点)

震災後に開設された「東京北魚市場」

1923(大正12)年の「関東大震災」で日本橋にあった「魚河岸」は焼失となり、芝浦(のち築地)へ移転。常磐線沿線などから南千住の「隅田川貨物駅」着で送られてきていた鮮魚類は、魚市場への運搬が困難になった。このため、同年、荷主や南千住の有力者などにより「隅田川貨物駅」の隣接地に「千住鮮魚販売所」が開設されたが、同地は「東京市中央卸売市場」の管轄区域内とされたため移転が命じられ、1925(大正14)年に西新井村本木(現・足立区千住桜木二丁目)へ移転、「東京北魚市場」に改称となった。図は1929(昭和4)年頃の構内図。ここは、「荒川放水路」(図左上、現「荒川」)の建設により西新井村が分断された飛び地となった土地で、図中央付近に千住町との町村界も描かれている。「荒川」(図下部、現「隅田川」)と放水路に囲まれており、入荷を中心に「荒川」の舟運も利用され、舟入堀も設けられていた。
MAP __【図は1929(昭和4)年頃】

「東京北魚市場」の跡地は、戦後の1949(昭和24)年より「太田酒造」(本社・滋賀県草津市)の東京工場となり、1964(昭和39)年まで醸造が行われた。現在もこの地に営業所が残り、その所縁から「清酒 千住」「千住葱焼酎やっちゃ場」など、千住オリジナルブランドの酒類の製造も請け負っている。市場・工場の跡地は現在は「桜会病院」、住宅地などになっている。跡地のすぐ南側の水面(「隅田川」左岸の一部)は昭和30年代前半に埋め立てられ、ここに1968(昭和43)年に開園した「足立区立尾竹橋公園」の園内には、1976(昭和51)年に「千住北魚市場跡」の碑が立てられた。写真右端の道路がかつての川岸で、そのさらに右が市場跡地となる。
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1944(昭和19)年、「東京北魚市場」は戦時統制により「東京水産物会社」と合併、「太平洋戦争」末期の1945(昭和20)年2月、「東京都中央卸売市場 足立分場」が千住橋戸町に開設されると、「足立分場」内へ移転した。戦後、旧「東京北魚市場」は統制会社からの独立を希望し、1947(昭和22)年、「足立分場」内で改めて「東京北魚市場」が設立された。「足立分場」は1962(昭和37)年に「足立市場」に改称となっている。写真は現在の「東京都中央卸売市場 足立市場」。
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関東一円から患者が訪れた「骨つぎの名倉」 MAP __

北千住の名倉家は、江戸中期の1770(明和7)年に接骨業を開業。業祖は、1772(明和9)年に発生した、目黒の「行人坂」にある「大圓寺」が火元の「明和の大火」(「江戸三大火」の一つ)で、けが人の治療に当たったという。「骨つぎの名倉」の名で知られるようになり、江戸後期には、江戸をはじめ、関東一円から多くの患者が訪れるように。明治期に入ると整形外科の専門医院として家業が引き継がれた。写真は1910(明治43)年頃の「名倉医院」。この頃も接骨の名医として人気があり、門前には通院する患者のため、3~4軒旅館があった。【画像は1910(明治43)年頃】

現在も名倉家は代々、整形外科の専門医を輩出。第五代は1931(昭和6)年、神田・駿河台に整形外科の「名倉病院」(現「名倉クリニック」)を開院、第六代は「東京厚生年金病院」(現「JCHO東京新宿メディカルセンター」)の初代院長を務めるなど、名倉家は日本の医学界の発展にも貢献している。写真は現在の「名倉医院」。

江戸後期に建てられた「横山家住宅」 MAP __

横山家は、江戸期、当時の再生紙である漉返紙(すきかえしがみ)を扱う問屋「松屋」を営んでいた商家。漉返紙の生産は明治期に最盛期を迎えたが、大正期になると製紙工場の進出などで衰退した。写真は1970(昭和45)年の「横山家住宅」。【画像は1970(昭和45)年】

現在の「横山家住宅」の建物は、江戸後期に建てられ、1936(昭和11)年に改修されたもの。建物内の柱には、幕末の「上野戦争」の際に敗走してきた彰義隊士が斬り付けた刀傷が残されている。

千葉佐那と「千葉灸治院」 MAP __

千葉佐那(さな子)は、「北辰一刀流 桶町千葉道場」の千葉定吉(「北辰一刀流」開祖・千葉周作の弟)の二女として1838(天保9)年に誕生した。「桶町千葉道場」で剣術を学び、同門となった坂本龍馬と1858(安政5)年頃に婚約したといわれるが、龍馬は1866(慶応2)年にお龍(楢崎龍)と結婚、1867(慶応3)年に「近江屋事件」で暗殺された。佐那は、1876(明治9)年頃より家伝の灸治を始め、1886(明治19)年、「千葉灸治院」を開院(場所は現・千住仲町12番付近と思われる)、1888(明治21)年に現在の千住仲町1番に新築移転した。佐那は1896(明治29)年に死去、「千葉灸治院」は兄の重太郎の養子である千葉束が継ぎ、『千葉の名灸』として知られるようになった。写真は1910(明治43)年頃の「千葉灸治院」。【画像は1910(明治43)年頃】

「千葉灸治院」は、1943(昭和18)年、戦時中の建物疎開により100mほど東へ移転、戦後も昭和50年代まで灸治を続けていたという。写真は1943(昭和18)年まで「千葉灸治院」があった場所で、2020(令和2)年に「千葉灸治院跡地」と題された坂本龍馬と千葉佐那のレリーフが設置された。


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