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東京近郊の地としての発展

江戸期に「板橋宿」として賑わった板橋は、明治期に入っても引き続き地域の中心地となっていた。その後、特に明治後期から大正期にかけて、競馬場、牧場、病院、工場など広大な土地を必要とし、かつ交通利便性も求められる都市の機能が、東京都心部からの移転や、新設により見られるようになった。大正期には東上鉄道(現・東武東上線)が開通、昭和初期には「中山道」の改良や、東京市電の延伸も行われるなど、交通の近代化も進み、工業地や住宅地として発展、それに伴い商業も発達。「関東大震災」後、この動きはさらに加速し、1932(昭和7)年、東京市へ編入され、その一部「板橋区」となった。


「板橋競馬場」と「愛光舎牧場」

「板橋競馬場」は、1908(明治41)年に開場した競馬場。1周1マイルの起伏がある馬場で、北側にメインスタンドがあった。競馬は同年内に3回開催されたが、同年馬券が禁止されたこともあり以降は開催されず、1910(明治43)年に「目黒競馬場」に統合され廃止となった。競馬場の跡地のうち、西側のカーブのあたりには、1914(大正3)年には「養育院 板橋分院」が開院、同年東上鉄道(現・東武東上線)が跡地内を貫く形で開通、1918(大正7)年には「豊島病院」が開院している。地図は競馬場廃止の翌年、1911(明治44)年の発行であるが、競馬場の形状はまだ描かれている。右の細かい家並みが旧「板橋宿」の「仲宿」、左下のあたりが大山となる。
MAP __【図は1911(明治44)年発行】

現在、「板橋競馬場」の跡地は主に住宅地となっている。写真中央に延びる崖線は「石神井川」により形成されたもので、その下が「板橋競馬場」跡地となる。写真右手は「東京都健康長寿医療センター」。

「板橋競馬場」の跡地のうち、北側のメインスタンドの跡地から「石神井川」にかけての一帯には、1913(大正2)年に巣鴨より「愛光舎牧場」が移転してきた。「石神井川」の右岸、約1万5千坪の敷地で約100頭のホルスタイン種の乳牛を飼育していたという。写真は1918(大正7)年頃の「愛光舎牧場」。水辺は「石神井川」の旧流路と思われる。現・板橋区域あたりの「石神井川」沿いには、昭和初期に多くの牧場が開設されたが、昭和30年代後半頃までに移転や廃業により姿を消した。
MAP __【画像は1918(大正7)年頃】

「愛光舎牧場」は戦前期まであったといわれ、戦後は昭和40年代頃まで「愛光舎乳製品工場」が置かれていた。現在、工場の跡地はマンションになっているほか、かつての牧場の一画には牛乳販売店の「愛光舎」がある。

渋沢栄一が院長を務めた「東京市養育院」

「養育院」は、病者、孤児などの窮民の救済を目的として1872(明治5)年に設立された施設。当初は本郷に置かれ、その後、数度移転した。1876(明治9)年より東京府の直轄となり、1890(明治23)年に東京市(1943(昭和18)年より東京都)へ移管。その「板橋分院」は、入所者の結核患者などが療養する施設として、「板橋競馬場」跡地の一部に、1914(大正3)年に設置された。写真は開設当初の「板橋分院」で、手前に東上鉄道の線路と踏切が見える。建物の一部には、明治天皇の「大喪儀」の式場で使用されたのち、東京市に下賜された用材が使われた。
MAP __【画像は1914(大正3)年】

「板橋分院」があった場所は、近年まで「東京都立板橋看護専門学校」として使用されていた。

「東京市養育院」は「板橋分院」が完成した1914(大正3)年、東武東上線を挟んだ隣接地に「本院」の移転予定地を購入。1921(大正10)年に着工していたが、1923(大正12)年9月の「関東大震災」で、当時大塚にあった「本院」の建物に被害があったため、「本院」は同月中に板橋へ移転となり、翌1924(大正13)年に建物が完成した。さらに翌1925(大正14)年には、「本院事務所」前に渋沢栄一の銅像が建立された。渋沢栄一は当初より「養育院」の運営に携わり、1876(明治9)年に事務長(1879(明治12)年に院長へ改称)となり、亡くなる1931(昭和6)年まで務めた。写真は「本院事務所」と、その前に建立された渋沢栄一の銅像。この銅像は、戦時中の金属回収で供出される予定であったが、終戦を迎えたことで免れた。
MAP __(銅像の当初の場所)【画像は1932(昭和7)年頃】

「東京都養育院」の敷地は戦後縮小されており、かつて「本院事務所」があった場所は「板橋区立板橋第一中学校」、旧「川越街道」沿いの正門が設けられた場所は「板橋区立文化会館」になっている。渋沢栄一の銅像は、「板橋区立文化会館」(写真中央)と「板橋区立板橋第一中学校」の間付近にあった。

「東京都養育院」は戦後に改組・改称があり、現在は「東京都健康長寿医療センター」となっている。写真の建物は2013(平成25)年に竣工し、同時に渋沢栄一の銅像が現在地(センターの並び)へ移設された。
MAP __(東京都健康長寿医療センター)

板橋区の誕生

「関東大震災」後、東京は郊外に都市が拡大していき、1932(昭和7)年、周辺の町村が東京市へ編入されることになった(いわゆる「大東京市」の誕生)。江戸期からの地域の中心地で、1878(明治11)年からは「北豊島郡役所」も置かれていた板橋町の町名が区名にも採用となり、「板橋区」が誕生した。当初の区役所庁舎は旧「北豊島郡役所」(現「リビオタワー」)の建物が使用され、1942(昭和17)年に改築されたが、空襲で焼失。1947(昭和22)年に新しい庁舎が現在地に完成、移転した。写真は昭和20年代中頃の「板橋区役所」で、北側からの撮影。
MAP __(当初の区役所)MAP __(現在の区役所)【画像は昭和20年代中頃】

板橋区の発足当時、区域は板橋町、上板橋村、志村、赤塚村、および現在の練馬区域からなっていたが、戦後の1947(昭和22)年、練馬区が分離独立し、概ね現在の板橋区域となった。写真は現在の「板橋区役所」を北側から撮影している。

「中山道」の改良

「中山道」は昭和初期に改良工事が行われた。旧道が拡幅された区間と、旧道と並行するバイパスが建設された区間があり、1938(昭和13)年に、板橋から「戸田橋」までが全て舗装され、近代的な道路となった。写真はバイパスが建設された「清水坂」(志村坂上・坂下間)の切通し。
MAP __【画像は昭和初期】

写真は現在の同地点付近の様子。旧道の「清水坂」は「武蔵野台地」と「荒川低地」の間の崖線部分の急坂で、江戸期からの難所であった。

同じく、「中山道」改修時の、昭和初期の「清水坂」の切通しで、「武蔵野台地」上から「荒川低地」方面を望んでいる。右に見える堂は「総泉寺」の入口。「総泉寺」は、平安時代の創建といわれる浅草の古社であったが、「関東大震災」で罹災したため、1928(昭和3)年に志村の「大善寺」の場所へ移転、その後「大善寺」を併合し現在に至る。旧「大善寺」の本尊は「清水薬師」とも呼ばれ、「清水坂」の地名の由来となっている。
MAP __【画像は昭和初期】

現在の同地点付近からの眺望。写真右が「総泉寺」となる。

「戸田橋」の架橋

「中山道」の「板橋宿」と「蕨宿」の間には「荒川」が流れているが、江戸期には江戸防衛のため橋は架けられず「戸田の渡し」が利用された。1875(明治8)年、「戸田の渡し」があったあたり(現在の「戸田橋」より130mほど下流側)に初代「戸田橋」(木橋)が竣工。その後、二代目「戸田橋」(木橋)が1912(大正元)年に架橋されたが、1918(大正7)年から始まった「荒川上流改修工事」で河川敷が大幅に拡げられることになり、100mほど上流側に鉄製トラス橋の三代目「戸田橋」が1929(昭和4)年に着工、1932(昭和7)年に竣工となった。完成後は、美しい橋として見物客も訪れる観光地となったという。写真は1932(昭和7)年頃の撮影。手前が二代目「戸田橋」、奥が完成間近の三代目「戸田橋」で左岸・戸田側から西方面を望んでいる。
MAP __(戸田の渡し跡地)【画像は1932(昭和7)年頃】

写真は「1964年東京オリンピック」の聖火リレーが三代目「戸田橋」を渡る様子。
MAP __(三代目跡地)【画像は1964(昭和39)年】

1973(昭和48)年、三代目「戸田橋」から30mほど上流(「戸田の渡し」跡から130mほど上流)に四代目「戸田橋」が着工となり、1977(昭和52)年に下り線分が開通。翌年、上り線分も開通し、三代目「戸田橋」は役目を終えた。写真左は現在の四代目「戸田橋」。三代目「戸田橋」は写真中央の駐車場付近に架橋されていた。右にはJR東北・上越新幹線と埼京線の橋が架かる。
MAP __

「環七通り」の建設 MAP __

「環状七号線」は、「関東大震災」からの復興期、1927(昭和2)年に都市計画決定されたが、その後、戦時体制下・戦時中に不急の箇所の工事は凍結され、終戦後は一部戦災復興と併せて整備が進められたものの、多くの部分が未完成であった。こうした中、1959(昭和34)年に「1964年東京オリンピック」の開催が決まると、その競技会場や選手村などを結ぶ道路の整備が課題となり、「環状七号線」は重点的に整備が進められることになった。

「環状七号線」の工事は板橋区内でも急ピッチで進められた。写真は1963(昭和38)年の撮影で、「環状七号線」が東武東上線とアンダーパスで交差する部分の工事が進められている。同年には「東京都通称道路名」として「環七通り」の通称も告示された。写真奥の建物は同年に竣工した「板橋区立上板橋第一中学校」の新校舎。【画像は1963(昭和38)年】

写真は現在の同地点の様子。「板橋区立上板橋第一中学校」の校舎は現在も残る。


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