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工業の発展

幕末期に大砲や火薬の製造が行われた「加賀藩前田家下屋敷」は、明治期に入ると陸軍の火薬工場となり、現・北区にかけての一帯は陸軍の軍事施設が集積する地へと発展した。志村一帯は、「関東大震災」の復興期の「東京都市計画」で工業地域に指定されたこともあり、昭和初期に工場の進出が相次ぎ、特に、当時の重要な軍需産業であった光学産業の工場も多く立地するようになった。戦後、軍需工業から平和産業への転換が行われ、光学産業はカメラなど、民需品の生産で発展。印刷関連、食品関連など、都市近郊の立地を生かした工業も発達し、板橋区を拠点に日本を代表するメーカーへ成長した会社も多い。現在も区内で生産を続ける工場がある一方で、近年、工場機能を郊外に移転した会社もあり、広大な工場跡地を活用した大規模なマンションや商業施設も多く見られるようになった。


「陸軍板橋火薬製造所」と「砲兵工科学校分校」

幕末期の1853(嘉永6)年、アメリカの「ペリー艦隊」が来航すると、既に大砲製造の技術を持っていた加賀藩は、江戸防衛のため、板橋の「加賀藩前田家下屋敷」(「平尾邸」)でも製造を開始した。1855(安政2)年までに、台場に設置する「青銅製西洋式18ポンド砲」など大砲20門を製造。製造には「石神井川」の水車が動力として使用された。「明治維新」後の1871(明治4)年、「平尾邸」敷地の一部は「兵部省」(のち「陸軍省」)の所有となり、1876(明治9)年に火薬製造所、翌年には隣接して火薬試験場が設置された。その後、改称・敷地の拡張などを経て、1945(昭和20)年の終戦時には「陸軍造兵廠 東京第二陸軍造兵廠 板橋製造所」となっていた。図は1914(大正3)年測量の1/20000地形図。
MAP __【図は1914(大正3)年測量】

「加賀公園」一帯は、2017(平成29)年に「陸軍板橋火薬製造所跡」として国の史跡に指定された。現在、板橋区が史跡公園として整備するため、調査研究や計画の策定を進めている。また、「愛誠病院」内など、史跡指定地外にも「板橋火薬製造所」時代の建物や遺構が多く残る。写真はかつて「140号家」と呼ばれた建物で、旧「愛歯技工専門学校」(2019(平成31)年閉校)の敷地内にある。
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1908(明治41)年、小石川の「砲兵工科学校」のうち、火工学生が「板橋分校」に移転。1920(大正9)年に「陸軍工科学校 板橋分校」と改称、1940(昭和15)年に「陸軍兵器学校」となり、神奈川県相模原町(現・相模原市)へ移転した。写真は明治後期から大正前期の「陸軍工科学校 板橋分校」。手前の鉄道は1907(明治40)年、陸軍が敷設した軽便の電気軌道で、「板橋火薬製造所」から「銃砲製造所」(現・北区十条台)を経て「板橋火薬製造所 王子分工場」(現・北区堀船二丁目)を結んでいた(地図は『王子・滝野川』編に掲載)。
MAP __【画像は明治後期~大正前期】

戦中期、「板橋分校」跡地は陸軍の宿舎となり、戦後は「GHQ」が使用したのち、1955(昭和30)年に「板橋区立板橋第五中学校」が開校した。現在、中学校の敷地の北側、「加賀公園」の一角に「工科学校板橋分校跡」の碑がある。写真は「加賀公園」から「板橋区立板橋第五中学校」を撮影。

志村中台町にあった「東京瓦斯電気工業」の広大な工場 MAP __

「東京瓦斯電気工業」は1910(明治43)年に「東京瓦斯」の機械部門が独立した会社で、「日野自動車」「いすゞ自動車」、旧「日立航空機」などの前身となる。その「火薬製作部」の工場は、大正期に志村中台町(現・中台三丁目)に置かれた。写真は大正中期から昭和初期の撮影。1935(昭和10)年頃に「東京火薬工業」として独立、1937(昭和12)年に「日本窒素肥料」の資本下となり、1940(昭和15)年に「日本窒素火薬」(1943(昭和18)年より「日窒化学工業」)に吸収合併され、その「東京工場」となった。終戦後の1946(昭和21)年「旭化成工業」へ改称、この場所には「東京工場」のほか、研究所も設けられた。【画像は大正中期~昭和初期】

1974(昭和49)年、跡地の再開発として、「旭化成グループ」「三井不動産」などによる分譲団地「サンシティ」が着工となり、1977(昭和52)年より順次入居開始、1980(昭和55)年に全14棟が完成した。現在、約12万5,000㎡(「東京ドーム」約3個分)の広大な敷地に1,872戸、約6,000人が居住する大規模な団地で、敷地の約36%が緑地という緑豊かな住環境も魅力となっている。写真は現在の「サンシティ 東の丘」から北西方面を撮影。

光学産業が盛んになった板橋区一帯 MAP __

1932(昭和7)年、「服部時計店」の製造・開発部門「精工舎」(現「セイコー」)の測量機部門を母体とし、「東京光学機械」が設立され、翌年、板橋区志村に工場を建設した。ここでは、主に日本陸軍の光学機器の生産が行われた。写真は昭和初期の「板橋区志村第一土地区画整理」の様子で、右に「東京光学機械工場用地」の杭が立てられている。戦前期の板橋区内には「旭光学」(のちの「PENTAX」)、「大和光学製作所」(のちの「キヤノン 板橋工場」)など、多くの光学機器工場が誕生した。【画像は昭和初期】

戦後、光学の技術を引き継いだ工場・技術者らがカメラ・双眼鏡など民需の光学製品を生産するようになり、板橋区は日本の光学産業の中心地として発展した。「東京光学機械」は1989(平成元)年に「トプコン」へ改称し、現在も志村に本社を構えている。写真は現在の同地点の様子。右奥の場所は「東京光学機械」の工場であったが、戦後に「山之内製薬」(現「アステラス製薬」)に売却され、その「小豆沢工場」(のち「東京研究センター」)となった。2011(平成23)年に閉鎖され、2015(平成27)年に写真のマンションが竣工した。

純国産写真フィルム発祥の地 MAP __

1917(大正6)年、小豆沢に創業した「東京セルロイド」。翌々年、全国のセルロイドメーカー8社の合併により「大日本セルロイド」が誕生し、その「東京工場」となった。1928(昭和3)年、純国産写真フィルムの研究・開発のため試験工場を開設し、1933(昭和8)年に開発に成功。翌年「写真フィルム部」が独立し「富士写真フイルム」(現「富士フイルム」)となった。写真は1939(昭和14)年に開園した「小豆沢公園」から望む「大日本セルロイド 東京工場」。奥に見える川は「新河岸川」。【画像は1939(昭和14)年頃】

「大日本セルロイド」は、1966(昭和41)年に「ダイセル」へ改称、「東京工場」は1969(昭和44)年に廃止された。「東京工場」の跡地の一部は、スポーツ施設の「小豆沢ガーデン」となったのち、2010(平成22)年にショッピングモール「セブンタウン小豆沢」(写真右のマンションの左側一帯)が開業した。写真右のマンションも工場跡の一画で、マンションの中庭に「昭和三年三月 純国産写真フィルム発祥の地」の碑が建てられている。

『板橋の国会議事堂』と呼ばれた「ヱスビー食品」の工場 MAP __

日本で初めて、純国産のカレー粉の製造に成功した山崎峯次郎氏は、1923(大正12)年、浅草で「日賀志屋」を創業。1935(昭和10)年、志村清水町(現・宮本町)に工場が完成、1940(昭和15)年には本社もここへ移転した。戦後の1949(昭和24)年に「ヱスビー食品」へ改称、翌年には、『板橋の国会議事堂』と呼ばれた工場(写真)も建設された。カレー粉で日本を変えるという気概を込めて「国会議事堂」を模していたという。【画像は1954(昭和29)年】

現在は、研究施設の「板橋スパイスセンター」が置かれているほか、営業拠点として使用されている。


小豆沢から世界的な管楽器メーカーへ発展した「ニッカン」と「ヤナギサワ」

1941(昭和16)年の「日本管楽器」の広告

図は昭和戦前期の「日本管楽器」の広告。「工場…板橋区志村小豆澤町」と表示されている。
【図は1941(昭和16)年】

「日本管楽器(ニッカン)」は明治中期、浅草で創業した「江川楽器製作所」を前身とする。当初は輸入管楽器の修理を行っていたが、その後、国産管楽器の製造を開始。1918(大正7)年に「合資会社日本管楽器製作所」へ改組、さらに1937(昭和12)年、戦時体制下での軍楽ラッパ増産など業務拡大のため「日本管楽器株式会社」となった。このとき、「日本楽器製造(現・ヤマハ)」は出資して経営に参画、「日本楽器製造」の社長・川上嘉市氏が監査役となった。翌1938(昭和13)年、板橋区志村小豆澤町(現・小豆沢一丁目)に工場(のちの「板橋工場」)が完成した。
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昭和初期になると、工場・会社でも多くの吹奏楽団が結成されるようになり、軍の勢力の拡大や戦争が進むにつれ陸軍・海軍の軍楽隊が活躍したほか、慰問、軍への入営や出征の見送り、また英霊を迎えるなど、各地域や団体の楽隊の活動も増えた。また海外製品の輸入が制限されたことで国産管楽器の需要は高まったが、戦争末期の1944(昭和19)年には航空機部品の生産を行うようになり、社名を「日管航器」へ改称した。

1963(昭和38)年撮影の空中写真

1963(昭和38)年撮影の空中写真に「日本管楽器 板橋工場」の敷地を示したもの。敷地はL字型であった。
【画像は1963(昭和38)年】

「日管航器」は戦後すぐに「日本管楽器」へ会社名を戻し、その後は「日本楽器製造(現・ヤマハ)」のグループ会社として、この地で管楽器の製造を続けた。1955(昭和30)年には樹脂製の「スペリオパイプ」を発売、学校教育用の楽器としてのリコーダーの普及と改良に大きく貢献した。また、戦前まで軍楽隊などが中心だった吹奏楽は、部活動など学校教育の中で再び盛んに。戦後の「日本管楽器」は日本の音楽教育や音楽文化を支える企業として成長していった。

生産が拡大する中、1963(昭和38)年、管楽器の生産部門を埼玉県入間郡大井村(現・ふじみ野市)に新設された「埼玉工場」へ移転、「板橋工場」では打楽器・教育楽器の生産が続けられた。その後、「日本管楽器」は親会社となっていた「YAMAHA」ブランドで管楽器を製造するようになったのち、1970(昭和45)年に「日本楽器製造(現・ヤマハ)」に吸収合併となり、明治期から培われてきた「ニッカン」の技術は「ヤマハ」の管楽器部門へ引き継がれた。

都営小豆沢一丁目第二アパート

「日本管楽器 板橋工場」の跡地に建設された「都営小豆沢一丁目第二アパート」。

「日本管楽器 板橋工場」の跡地には、1974(昭和49)年に「都営小豆沢一丁目第二アパート」が建設され現在に至っている。「日本管楽器 埼玉工場」を前身としていた「ヤマハ 埼玉工場」は、2013(平成25)年までに静岡県磐田市の「ヤマハ 豊岡工場」に統合され廃止となっている。

「ニッカン」出身の技術者が興した管楽器メーカーや管楽器店、管楽器修理店も多く、日本の音楽界に大きな影響を与えている。小豆沢の旧「日本管楽器 板橋工場」の近くに会社・工場を構える「柳澤管楽器」もその一つ。創業期の「江川楽器製作所」で工場長を務めた職人・柳澤徳太郎氏の子・孝信氏は、戦後、出征から「日本管楽器」へ戻ったのち独立。1951(昭和26)年に小豆沢でサックスの試作を開始、その後「柳澤管楽器(ヤナギサワ)」を設立し、現在は「ヤマハ」、フランスの「H.セルマー」とともに『世界3大サックスメーカー』の一つと呼ばれるまでに成長している。
MAP __(柳澤管楽器)



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