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住宅地の整備

明治後期から昭和戦前期にかけて、工業化が進み、交通の利便性も向上した板橋区域は、工場の従業員など、多くの住民が暮らす街としても発展した。特に「関東大震災」後は、復興の都市計画により工業化が一層進められ、従業員やその家族など住民が急増したほか、被害の少なかった「武蔵野台地」は、都心へ通勤する会社員などの住宅地としても注目されるようになった。


「荒玉水道町村組合」が建設した「大谷口配水塔」 MAP __

東京周辺の都市化・人口の増加は、大正中期頃より進み、特に1923(大正12)年「関東大震災」後、拍車がかかり、水道の整備も急務となった。当時の東京市の北西部にあたる北豊島郡・豊多摩郡に属する町村のうち、板橋町、西巣鴨町など13町は、1925(大正14)年に「荒玉水道町村組合」を設立、翌年、敷設工事が着工となった。「荒玉水道」は「多摩川」の伏流水を砧(現・世田谷区)で取水し、板橋町などへ送水するもの。「大谷口配水塔」(高さ約33m)は、その給水施設として当時の上板橋村に建設され、1931(昭和6)年に竣工、同年「荒玉水道」も完成となった。翌1932(昭和7)年、北豊島郡・豊多摩郡が東京市へ編入されたことに伴い、「荒玉水道町村組合」は「東京市水道局」へ併合された。写真は1954(昭和29)年に撮影された「大谷口配水塔」。【画像は1954(昭和29)年】

「大谷口配水塔」は1965(昭和40)年に休止、1972(昭和47)年に廃止となった。廃止後も「大谷口配水塔」の建物は残され、地域のシンボルとなっていたが、安定給水と震災対策のため、新たな給水所として再整備されることになり、2005(平成17)年に解体。跡地には、2011(平成23)年に旧配水塔のデザインを継承したポンプ棟を持つ「大谷口給水所」が完成した。

「常盤台」の開発

東武東上線の前身となる「東上鉄道」は1914(大正3)年の開通で、現・板橋区域には、下板橋、上板橋、成増の3駅が設けられた。1920(大正9)年、「東武鉄道」は「東上鉄道」を吸収合併すると、路線網から離れている東上線を繋ぐため、伊勢崎線「西新井駅」と東上線「上板橋駅」を結ぶ西板線(ルートは現「環七通り」とほぼ一致)を計画。「関東大震災」で一時中断されたのち、1928(昭和3)年頃に操車場予定地として上板橋村の東上線沿いに広大な土地の買収を行った。しかし、1929(昭和4)年以降の「昭和恐慌」の影響から、西板線の建設は1932(昭和7)年に中止となり、その後、操車場予定地だった「東武鉄道」の所有地は、郊外住宅地として開発されることになった。

当初は単純な碁盤の目の区画が検討されたが、社長・根津嘉一郎氏は、理想的な住宅地とするため、当時、都市計画を担っていた「内務省」に設計を委託。「東京帝国大学」を卒業し、入省したばかりの技術者・小宮賢一氏が、先進的・習作的な案を作成すると、「東武鉄道」はそのまま採用し、ループ状の遊歩道、クルドサック(袋小路)、3つの放射状道路などが取り入れられた、特徴的な住宅地が造成された。「東武鉄道」は、1935(昭和10)年に「武蔵常盤台駅」(現「ときわ台」駅)を開業、翌年、その北口一帯で「常盤台住宅地」の分譲を開始した。写真は分譲当初の頃の空撮。ループ状の遊歩道は、用地買収がうまくいかなかったため、北東部分(写真では右側中央付近)で一部途切れてしまっている。【画像は昭和戦前期】

日本画家・西澤笛畝(てきほ)氏は、「常盤台住宅地」の誕生当初から、1965(昭和40)年に亡くなるまで、常盤台の自宅で暮らした。実業家だった義父・西澤仙湖氏は、人形の蒐集家としても知られ、大正初期に義父が没すると、その膨大なコレクションと研究を引き継いでおり、1936(昭和11)年、自宅に隣接して「童宝文化研究所」(「西澤人形玩具研究所」とも称した)を設立した。写真は「西澤人形玩具研究所」の前で撮影されており、中央に西澤笛畝氏が写る。【画像は昭和戦前期】

戦後、「童宝文化研究所」は「人形玩具文化の会」となった。写真は現在の常盤台一丁目の街並み。「人形玩具文化の会」は写真右手付近にあった。その後、笛畝氏のコレクションは、埼玉県越生町の「笛畝人形記念美術館」(1986(昭和61)年開館)で展示されたが、のちに閉館。現在は、2020(令和2)年に開館した「さいたま市岩槻人形博物館」が収蔵・展示している。
MAP __(常盤台一丁目)

写真は1968(昭和43)年の「ときわ台駅」。1951(昭和26)年に「武蔵常盤駅」から改称となった。
MAP __【画像は1968(昭和43)年】

写真は現在の「ときわ台駅」。駅舎は2018(平成30)年にリニューアルされ、開業した頃のデザインや色使いが可能な限り再現された。

「石神井川」と「東京都立城北中央公園」 MAP __

板橋区域の「石神井川」は、かつては大きく蛇行していたが、大正期から戦前期の土地区画整理などで、多くの箇所で直線化された。写真は1951(昭和26)年頃の「栗原堰」(写真外右手)付近の様子。「栗原堰」で取水された農業用水は「あげ堀」と呼ばれ、「石神井川」左岸の水田で利用された。写真左手には牧場も見える。【画像は1951(昭和26)年頃】

写真は現在の同地点付近の様子。この一帯は、1942(昭和17)年に「防空緑地」となり、1957(昭和32)年に「上板橋緑地」として整備、1970(昭和45)年に「東京都立城北中央公園」と改称された。「石神井川」流域は1958(昭和33)年に「狩野川台風」で大きな被害を受け、翌年より、本格的な護岸工事が始められた。板橋区域内は、1983(昭和58)年に毎時50mmの降雨に対応できる改修工事を終え、現在は毎時75mmに対応する改修工事が行われており、写真右手ではその一環となる「城北中央公園調節池工事」が進められている。

「高島平団地」の整備と地下鉄の開通

現在の高島平一帯は、かつて「徳丸ヶ原」と呼ばれた地。江戸期は天領であったが、明治に入ると周辺の村に払い下げられ、水田地帯となり、「徳丸田んぼ」「赤塚田んぼ」と呼ばれるようになり、東京最大の水田として発展した。昭和30年代から住宅地化が検討されるようになり、1966(昭和41)年から「板橋土地区画整理事業」が「日本住宅公団」(現・UR)により施行され、1969(昭和44)年、住居表示の実施により高島平一丁目~九丁目が誕生した。同年、「日本住宅公団」により「高島平団地」が着工となり、1972(昭和47)年に竣工・入居開始、土地区画整理事業も完了となった。
MAP __【画像は1972(昭和47)年】

「高島平団地」は賃貸が8,287戸、分譲が1,883戸の計10,170戸からなり、単体の団地としては日本最大の戸数を誇る。

都営地下鉄6号線は「板橋土地区画整理事業」で誕生する団地などの交通手段として、1968(昭和43)年に巣鴨~志村間で開通した。地下鉄ではあるが、高島平周辺では高架橋上を走る。写真は1969(昭和44)年の「志村駅」で、南側を望んでいる。「高島平団地」の着工直後の撮影で、まだ何も建設されていない。
MAP __【画像は1969(昭和44)年】

「志村駅」は開業の翌年、1969(昭和44)年に「高島平駅」へ改称された。都営地下鉄6号線は1978(昭和53)年に都営地下鉄三田線に改称されている。写真は現在の「高島平駅」で、正面に「高島平団地」とその商店街が見える。


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