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「関東大震災」と復興

1923(大正12)年9月1日に発生した「関東大震災」は、「相模湾」北西部を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震であった。横浜市は東京より震源に近く、また中心部の多くが埋立地であったこともあり、大きな被害を受けた。その後、横浜市内では震災復興事業による、道路の拡幅や架橋、区画整理、公園の造成などが行われ、街の基盤が整備された。


被災した「横浜税関」と復興建築

1923(大正12)年の「関東大震災」は、「横浜港」の施設にも甚大な被害をもたらした。写真は震災で廃墟と化した「横浜税関」付近。西門の周りには被災者のための屋台が並んでいる。背景に霞んで見えるのが「鉄桟橋」。沖合には旧・日本海軍の巡洋艦も停泊している。この写真が撮影された当時の「横浜税関」の二代目庁舎は、現在の「象の鼻パーク」あたりにあった。【画像は1923(大正12)年】

「横浜税関」は、仮庁舎を経て、1934(昭和9)年、「帝都復興事業」の一環として、三代目の庁舎が完成した。建設地は、二代目の場所より150mほど北東側になる。イスラム寺院風のエキゾチックなドームを持つ塔(高さ51m)があり、昭和戦前期以降、「横浜三塔」の一つ、『クイーンの塔』とも呼ばれるようになった。
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写真は現在の「横浜税関」。1934(昭和9)年築の庁舎が残されており、2003(平成15)年には保存改修工事が竣工している。


震災復興期以降「横浜港」のシンボルとなった『横浜三塔』

『横浜三塔』は、大正期から昭和初期にかけて関内地区に建設された3つの建物の塔のこと。建てられた当時は、ほかに目立つ建物は少なく、「横浜港」に入港してくる船が目印としていた。『キングの塔』などの愛称は、外国人船員たちがトランプのカードに例えて名づけたという。

『キングの塔』と呼ばれる「神奈川県庁本庁舎」

『キングの塔』と呼ばれる「神奈川県庁本庁舎」。
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1923(大正12)年の「関東大震災」で焼失した「神奈川県庁本庁舎」の新庁舎は1928(昭和3)年に竣工した。モダンな鉄筋コンクリートのビルで、中央に建物のシンボルの塔(高さ約49m)があり、『キングの塔』とも呼ばれる。

横浜税関」の建物も、「関東大震災」で倒壊・焼失し、1934(昭和9)年、国の「帝都復興事業」の中で、新庁舎が完成した。ドームを持つ塔で、高さは約51mで『クイーンの塔』とも呼ばれる。国の威信を懸けて、県庁の『キングの塔』より高く作られたといわれる。

『ジャックの塔』と呼ばれる「横浜市開港記念会館」

『ジャックの塔』と呼ばれる「横浜市開港記念会館」。
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高さ約36mの『ジャックの塔』は、震災前の1917(大正6)年に「開港記念横浜会館」として竣工した建物であったが、「関東大震災」で倒壊。1927(昭和2)年に震災からの復旧工事が竣工した。1959(昭和34)年に「横浜市開港記念会館」に改称され、現在に至る。


震災復興事業の一環で建設された「横浜公園球場」 MAP __

1876(明治9)年に完成した「彼我公園」(「横浜公園」の前身)の中央部には、居留外国人のためのクリケット場が置かれ、野球、サッカー、ラグビーなどのグラウンドとしても利用された。1899(明治32)年に「横浜公園」となり、翌年には、公園内に野球場が開設されたが、1923(大正12)年の「関東大震災」で被災。1929(昭和4)年、震災復興事業の一環で「横浜公園球場」が完成した。写真は昭和戦前期に球場の北から南方向を撮影している。「太平洋戦争」が激化した1942(昭和17)年に球場の使用は停止された。戦後は米軍の接収を受け「ルー・ゲーリック・メモリアル・スタジアム」と改称されたが、接収中も、日本の大学野球や職業野球(現・プロ野球)の試合は開催された。【画像は昭和戦前期】

1952(昭和27)年、接収が解除され横浜市へ返還となり、1955(昭和30)年に「横浜公園平和野球場」へ改称、高校野球やアマチュア野球などに利用された。その後、老朽化もあり、プロ野球も行える球場へ建替えられることになり、1977(昭和52)年に解体、1978(昭和53)年に「横浜スタジアム」が竣工となり、同年より「横浜大洋ホエールズ」(現「横浜DeNAベイスターズ」)の本拠地となった。また、大学野球や高校野球など、アマチュア野球の試合会場としても利用されている。写真は現在の「横浜スタジアム」で、球場の北から南方向を撮影している。

震災復興事業で誕生した「山下公園」 MAP __

1923(大正12)年の「関東大震災」後、震災復興計画の中で、「海岸通り」沿いの海岸に「山下公園」の設置が決定。1925(大正14)年から4年にわたって、市内から出た瓦礫などによる埋立てが行われ、1930(昭和5)年に開園した。写真は昭和戦前期の「山下公園」。【画像は昭和戦前期】

「山下公園」は、終戦後、米軍に接収されたが、1954(昭和29)年から段階的に接収が解除され、1961(昭和36)年に再整備が完了、同年、岸壁に「氷川丸」が係留された。写真は現在の「山下公園」で、「大さん橋」方面を望んでいる。

震災の教訓を伝えるために開設された「横浜市震災記念館」 MAP __

1923(大正12)年の「関東大震災」後、当時の横浜市教育課長は、震災の教訓を後世に伝えるため、震災記念館の建設を発案、翌1924(大正13)年の震災1周年の日に「横浜市震災記念館」が開館した。2度の移転ののち、1928(昭和3)年、老松町の「横浜市図書館」の別館として開館した(写真)。しかし、「太平洋戦争」開戦後の1942(昭和17)年、展示品の金属類が回収され休館に。同年「横浜市市民博物館」として再開したが、1945(昭和20)年7月に休館が決定し、戦後も展示が再開されることはなかった。【画像は1928(昭和3)年頃】

建物自体は1991(平成3)年まで、結婚式場「老松会館」などに利用されたが、隣接する「横浜市図書館」が「横浜市中央図書館」へ改築される際に取り壊された。場所は、現在の「野毛山中央駐車場」のあたりにあった。

横浜市復興計画の一環として建設された「ホテルニューグランド」 MAP __

「関東大震災」からの復興期、横浜市の有力者により結成された「横浜市復興会」は、外国人のためのホテルの建設を決議。ホテル名の「ホテルニューグランド」は、「関東大震災」で倒壊した「グランド・ホテル」を引き継ぐものとして命名されたともいわれる。横浜市復興計画の一環として、官民一体となって建設が進められ、1927(昭和2)年に開業となった。設計は建築家・渡辺仁。写真は昭和の戦前期の撮影。終戦後は「GHQ」の将校宿舎として接収され、1952(昭和27)年に解除された。【写真は昭和戦前期】

「ホテルニューグランド」は、レストランにも力が注がれ、昭和初期には「ドリア」、戦後の接収中には「ナポリタン」「プリン・ア・ラ・モード」と、のちに日本の洋食で人気となるメニューが、ここの厨房で生み出された。写真は現在の「ホテルニューグランド」。本館の建物は、1992(平成4)年に「横浜市認定歴史的建造物」、2007(平成19)年に「近代化産業遺産」に認定。現在も、横浜生まれの作家・大佛次郎が執筆に利用した部屋や、ダグラス・マッカーサーが宿泊した部屋が残されている。本館の隣には、1991(平成3)年に新館「ニューグランドタワー」が完成した。

「バンドホテル」と「横浜港」 MAP __

写真は昭和戦前期、現在の「港の見える丘公園」あたりから撮影した「横浜港」。海上で弧を描いているのは、港内防波堤のうち1,640mにわたる「東水堤」。左中央に写る鉄橋は「堀川」の河口付近に架かる「山下橋」で、その手前の白い建物が1929(昭和4)年創業の「バンドホテル」。「バンド(BUND)」とは、「東洋の海岸通り」を意味する英語で、その名前の通り、海岸際のホテルであった。昭和初期には、外国人の社交場となり、「太平洋戦争」中は、交換船に乗る敵国の外国人やドイツ軍が利用した。終戦後に接収、1956(昭和31)年に解除となり、翌年営業を再開。1959(昭和34)年には7階建てのホテルとなり、1968(昭和43)年に、最上階にナイトクラブ「シェルルーム」をオープン、大人の社交場として一世を風靡した。1982(昭和57)年にはライブハウス「シェルガーデン」もオープンし、多くの有名ミュージシャンを輩出した。【画像は昭和戦前期】

「山下埠頭」と首都高速道路の建設により、風景は一変した。かつて「東水堤」であった大部分が現在は「山下埠頭」となっている。「バンドホテル」は老朽化などから1999(平成11)年に閉鎖、跡地には、2000(平成12)年に「ドン・キホーテ 港山下店」が開店した。2009(平成21)年に「MEGAドン・キホーテ 山下公園店」へ改称、2016(平成28)年に一旦閉店し建替えられ、2018(平成30)年に「MEGAドン・キホーテ港山下総本店」(写真中央左の白い建物)が開業した。


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