1955(昭和30)年頃の撮影と思われる写真で、神奈川区浦島丘から南方向、「京浜工業地帯」の一角を望んでいる。写真中央を国鉄(現・JR)と、京浜急行本線の線路が横切る。浦島丘は、元は標高40m以上ある山であったが、明治後期から大正初期にかけて、沿岸部の倉庫・工業地帯「新浦島町」「千若町」などの埋立てや、鉄道の敷設・移設工事に伴い、削られ雛壇状に整地され、戦後、写真のように住宅が建てられた。アドバルーンの後方に見える大きい建物は「日本製粉 横浜工場」(「千若町」に1924(大正13)年竣工)で、現在も同地点にある。右中央の大きい建物は、在日米軍の「神奈川ミルクプラント」。元は1930(昭和5)年に設置された「神奈川県立金属工業指導所」であったが、戦後に接収され、在日米軍とその家族のため、ミルクなどの乳製品を製造・供給した。
横浜の街は「関東大震災」の震災復興から間もない1945(昭和20)年、「太平洋戦争」中の「横浜大空襲」でも甚大な被害を受けた。戦後は、港湾施設をはじめ、さまざまな施設の接収もあったが、徐々に復興を遂げ、国内有数の大都市となった。