「横浜ボートシアター」の「ふね劇場」での稽古風景。
今でも「山下埠頭」脇の艀だまりには、多くの艀の姿が見られる。もちろん、かつてのような活況は見いだせない。ただ、横浜で役目を終えた艀については、1980年代初頭からの後日談がある。
1981(昭和56)年、艀を劇場として利用した劇団が横浜で旗揚げした。遠藤啄郎氏を主宰者として、仮面を用いた創作劇を演じる劇団「横浜ボートシアター」だ。「ダルマ船」と呼ばれる木造の艀を劇場施設に改造した「ふね劇場」を、JR「石川町駅」前の「堀川」岸に係留して活動していた。
当時はアングラ劇ブームの余韻が残る時代。係留できる場所さえあれば、どこでも稽古、上演できる可動式の小劇場は、世界的に見ても珍しかった。同劇団は今でも活動を続けていて、現在の「ふね劇場」は鉄製の艀を使った三代目だ。ただ、時勢の難しさもあって、「ふね劇場」内での公演は行えず、稽古や内輪での企画にのみ使用している。場所は艀だまりのどこかだ。
横浜を取材して回るなかで、当地の演劇振興に長年力を注いできた一宮均さんと知り合った。若い頃から港湾労働に従事し、横浜の港を見つめてきた、まさしく港町・横浜の時代の証人と言える人だ。「横浜ボートシアター」との関わりも深い。2代目の「ふね劇場」が沈没したときには、「横浜ふね劇場をつくる会」を立ち上げ、人々に呼びかけて同劇団の活動を支えた。「第1回横浜トリエンナーレ」では、「ふね劇場」を「新港埠頭」の「五号岸壁」に係留して同劇団の『王サルヨの婚礼』公演を実現した。
そんな一宮さんが取材のなかで語った言葉。「横浜は海から見なければ分からない」。移りゆく横浜も、変わらない横浜も、ずっと見つめ続けてきた港を通してこそ、横浜という街の変遷を知ることができるのかもしれない。