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戦後の「横浜港」周辺の風景

開港以来、港町として発展してきた横浜。多くの人が港で働き、暮らし、文化を醸成してきた。ここでは、近年、失われた、または失われつつある港の光景を紹介する。


「横浜港」の貨物駅だった「東高島駅」 MAP __

鶴見と高島を結ぶ東海道本線貨物支線(通称・高島線)および東神奈川と高島を結ぶ貨物線が1917(大正6)年に開通。1924(大正13)年、両線が合流する地点に貨物駅の「東高島駅」が開業した。戦前~高度経済成長期頃までは鉄道貨物の輸送が盛んで、「横浜港」には多くの貨物駅や支線・引込線があったが、その後、次第に利用は減少、路線・駅の廃止も相次いだ。写真は1987(昭和62)年に撮影された、「東高島駅」に設置されていた水陸連絡ホームで、貨物を運ぶための艀が着岸している。「東高島駅」の敷地のあたりは、幕末期に「神奈川台場」が造成された場所でもある。【画像は1987(昭和62)年】

写真は2020(令和2)年に撮影した「東高島駅」の水陸連絡ホーム跡。現在、「東高島駅」では貨物の取り扱いはなく、信号所としての機能が残る。この一帯では、現在「東高島駅北地区土地区画整理事業」が施行中で、写真の運河の埋立て、道路の整備、橋の撤去などの工事が行われており、タワーマンションや商業施設などが建設される予定となっている。【画像は2020(令和2)年】

1949(昭和24)年に開業した「東西上屋倉庫」 MAP __

幕末期の開港時、このあたりに「東波止場」(のちに「大桟橋」へ発展)と「西波止場」が造られた。明治初期には東西の波止場の間に上屋(荷捌き場)が置かれ、震災後も「東西上屋」として使用されていた。戦後、米軍の接収を経て、1949(昭和24)年に「東西上屋倉庫」が開業した。当時、「横浜港」では倉庫が不足していたこともあり、「東西上屋倉庫」は活気あふれる場所となった。写真は「神奈川県庁」新庁舎の屋上展望台から、1980年代前半に撮影したもの。右手に「東西上屋倉庫」の鮮やかな緑色の屋根が見える。【画像は1980年代前半】

写真は「神奈川県庁 本庁舎」から撮影した現在の様子。横浜市は「開港150年記念事業」の中で、この場所一帯を「象の鼻パーク」として再整備することになり、「東西上屋倉庫」は2008(平成20)年に本牧ふ頭へ移転、翌年「象の鼻パーク」(写真右の建物後方の広場)が開園した。


艀(はしけ)の風景

「山下埠頭」脇の艀だまりの様子。

「山下埠頭」脇の艀だまりの様子。 MAP __

港という場所は、常に通過点である。前衛的であり、変わり続ける。開港から現在に至るまでの横浜にも言えることだ。

時代をとらえた写真や文書が多く残る一方で、歴史に残らず、忘れ去られていく物事もはかり知れないほどある。「3日住めばハマっ子」といわれるように、新しいものを積極的に受け容れる気質も、そんな移ろいの早さから醸し出された人間らしい側面と言えるかもしれない。

開港から160年以上が経った横浜で、姿かたちの変わったものは数多ある。戦後の大きな変化では、海上貨物輸送のコンテナ化があった。物流における20世紀の重要な発明のひとつであるコンテナは、世界の貨物輸送のあり方を変え、開国以来日本の玄関となった「横浜港」にも大きな影響を与えた。港湾機能の中心は、しだいにコンテナターミナルを備えた埠頭へと移っていき、それに伴い、沖の船から荷物を積んで岸まで運ぶために港内を忙しく行き来していた艀の多くが引退し、艀の上で躍動していた人々の姿も消えていった。

20世紀末、横浜中心部のウォーターフロントには、使われなくなった鉄道線路や倉庫が残った。あるものは取り壊され、あるものは観光スポットとして再開発され、再び命が吹き込まれた。そうして再生されたものの代表のひとつが、「横浜赤レンガ倉庫」として全国的に知られるようになった。一方で、一時は1,700隻以上を数えたという艀の群れは、もうほとんど姿がない。今でも、艀だまりには鉄製の艀がいくつか係留されているが、目に留める人は少ないだろう。

艀の主たる役割は、時代の変化とともに不要となった。しかし、艀が貨物輸送の要として活躍した時代を知る者にとって、この艀の浮かぶ風景は、往時の賑わいを想起させる郷愁の風景なのではないだろうか。


「堀川」と艀 MAP __

「横浜港」での艀の稼働数は、1970(昭和45)年頃に1,700隻以上とピークを迎えた。「山下埠頭」の東につながる「堀川」の河口あたりは、艀が係留される「艀だまり」となっていた。しかし、コンテナ船の時代が到来すると、艀の利用機会は少なくなり、次第に稼働数も減少していった。写真は1981(昭和56)年頃の「堀川」で、JR「石川町駅」の前には、使われなくなった艀を劇場とする「ふね劇場」があり、劇団「横浜ボートシアター」が活動していた。【画像は1981(昭和56)年頃】

写真は現在の「堀川」。中央奥にJR「石川町駅」がある。


艀を劇場とした「横浜ボートシアター」

「横浜ボートシアター」の「ふね劇場」での稽古風景

「横浜ボートシアター」の「ふね劇場」での稽古風景。

今でも「山下埠頭」脇の艀だまりには、多くの艀の姿が見られる。もちろん、かつてのような活況は見いだせない。ただ、横浜で役目を終えた艀については、1980年代初頭からの後日談がある。

1981(昭和56)年、艀を劇場として利用した劇団が横浜で旗揚げした。遠藤啄郎氏を主宰者として、仮面を用いた創作劇を演じる劇団「横浜ボートシアター」だ。「ダルマ船」と呼ばれる木造の艀を劇場施設に改造した「ふね劇場」を、JR「石川町駅」前の「堀川」岸に係留して活動していた。

当時はアングラ劇ブームの余韻が残る時代。係留できる場所さえあれば、どこでも稽古、上演できる可動式の小劇場は、世界的に見ても珍しかった。同劇団は今でも活動を続けていて、現在の「ふね劇場」は鉄製の艀を使った三代目だ。ただ、時勢の難しさもあって、「ふね劇場」内での公演は行えず、稽古や内輪での企画にのみ使用している。場所は艀だまりのどこかだ。

横浜を取材して回るなかで、当地の演劇振興に長年力を注いできた一宮均さんと知り合った。若い頃から港湾労働に従事し、横浜の港を見つめてきた、まさしく港町・横浜の時代の証人と言える人だ。「横浜ボートシアター」との関わりも深い。2代目の「ふね劇場」が沈没したときには、「横浜ふね劇場をつくる会」を立ち上げ、人々に呼びかけて同劇団の活動を支えた。「第1回横浜トリエンナーレ」では、「ふね劇場」を「新港埠頭」の「五号岸壁」に係留して同劇団の『王サルヨの婚礼』公演を実現した。

そんな一宮さんが取材のなかで語った言葉。「横浜は海から見なければ分からない」。移りゆく横浜も、変わらない横浜も、ずっと見つめ続けてきた港を通してこそ、横浜という街の変遷を知ることができるのかもしれない。




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