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「開港場」から発展した文化

「開港場」となった横浜は、国内外の物や人が集まる地となり、それに伴い西洋をはじめとする多様な文化も流入し、発展した。


横浜の競馬場

開港間もない1862(文久2)年、居留地の外国人の要望から、外国人居留地の一部とされていた「横浜新田」(現「横浜中華街」)に仮設ながら、公式なものとしては日本初の洋式競馬場となる「横浜新田競馬場」が作られた。一周約1,200mのコースで、同年の春に第一回の競馬が開催された。しかし、「横浜新田競馬場」は地盤が悪かったため、すぐに別の場所での競馬場設置が求められるようになり、幕府は秋の2回目の開催後に廃止し移転することを決定した。
MAP __(横浜新田)

幕府は、新たな競馬場の建設地を検討したのち、幕末の1866(慶応2)年に「根岸競馬場」を建設、翌年から競馬が行われた。当初は居留外国人による「横濱レース倶樂部」などがレースを主催していたが、1880(明治13)年に「日本レースクラブ」へ改称、日本人も入会できるようになり、伊藤博文、大隈重信、岩崎弥之助など政府の要人や実業家も会員となった。写真は明治中期の「根岸競馬場」。1888(明治21)年より馬券の発売が行なわれ、1905(明治38)年には「エンペラーズカップ」(現「天皇賞」)が始まった。
MAP __【画像は明治中期】

「根岸競馬場」は1923(大正12)年の「関東大震災」で大きな被害を受けたため、1929(昭和4)年、鉄骨鉄筋コンクリート製の新たなスタンド「一等馬見所」と「二等馬見所」の建設に着手、翌年完成した。写真は1931(昭和6)年頃の撮影で、右の3つの塔(エレベーター塔)がある建物が「一等馬見所」、その左が「二等馬見所」。【画像は1931(昭和6)年頃】

1937(昭和12)年に「横浜競馬場」へ改称、その後戦争の激化により、1942(昭和17)年に競馬の開催は休止となった。戦後は米軍に接収され、ゴルフ場、駐車場などに利用された。1964(昭和39)年から1969(昭和44)年にかけて敷地の大部分の接収が解除、返還され、1977(昭和52)年に「根岸森林公園」などが開園した。写真は現在も残る旧「一等馬見所」。「二等馬見所」は老朽化のため、1988(昭和63)年に解体された。

国産のアイスクリーム発祥の地

初めてアイスクリームを食べた日本人は、開港の翌年に「横浜港」から出発した、江戸幕府の「万延元年遣米使節」の一行と言われている。開港後の横浜の外国人居留地では外国産の氷を用いたアイスクリームが売られていたが、国産としては1869(明治2)年、中川嘉兵衛が「函館氷」の出荷に成功し、町田房蔵が「馬車道」沿いの常盤町五丁目で「あいすくりん」と名づけて売り出したものが始まり。写真は明治中期、客で賑わう氷水屋「元祖アイスクリム港屋」の様子。柱には「アイスクリム」の文字、のれんには屋号「美な登家」の一部が読み取れる。【画像は明治中期】

写真は「太陽の母子」の像。1869(明治2)年に「馬車道」沿いで町田房蔵が「あいすくりん」を販売したことを記念し、1976(昭和51)年に「日本アイスクリーム協会」が建立した。
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日本のビール産業発祥の地

横浜は、日本で最初にビール醸造所がつくられた地としても知られる。横浜山手の天沼(現在の諏訪町)は、起伏が多く、良質な地下水にも恵まれていた。1870(明治3)年、ノルウェー系アメリカ人のウィリアム・コープランドは、外国人居留区の山手123番(天沼)にビール醸造所「スプリング・バレー・ブルワリー」を開設。1875(明治8)年には日本初のビアガーデン「スプリング・バレー・ガーデン」も開設した。その後、1884(明治17)年、「スプリング・バレー・ブルワリー」は倒産となり、翌年、新会社「ジャパン・ブルワリー」が設立された。醸造所(のちの「横浜山手工場」)や技師、従業員は引き継がれ、1888(明治21)年に「麒麟ビール」を発売、1907(明治40)年に「麒麟麦酒株式会社」となった。【画像は明治中期】

「麒麟麦酒 横浜山手工場」は、敷地面積7,000坪以上の規模までに達していたが、1923(大正12)年の「関東大震災」で倒壊。1926(大正15)年、現在の鶴見区生麦に「横浜新工場」(現「キリンビール横浜工場」)が完成し移転した。「横浜山手工場」の跡地の一部には1937(昭和12)年に「キリン園公園」が開園し、園内には「麒麟麦酒開源記念碑」も建てられた。写真は現在の「キリン園公園」。
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「吉浜橋」から見た「フェリス和英女学校」

開港以降、横浜には多くのキリスト教の宣教師も来航、聖書を翻訳、教会を創立し布教活動を行った。また、女性宣教師らは、女性の教育と地位向上のため、女性のためのミッションスクールも創設した。日本初のミッションスクールである「フェリス女学院」は、1870(明治3)年、米国人宣教師のメアリー・E・キダーが「野毛山」に開いた「キダーさんの学校」に始まる。1875(明治8)年、山手178番に校舎を新築した際、キダーの活動を支えたフェリス父子を称え「フェリス・セミナリー」と命名した。写真は明治中期、「派大岡川」に架かる「吉浜橋」あたりから見た「フェリス和英女学校」(1889(明治22)年改称、写真奥の山上の建物)。写真右手は、1865(元治2)年、幕府により「横浜製鉄所」が設置された場所。ここでは艦船の修理などが行われ、明治に入ると新政府が引き継いで使用した。その後、民間企業に貸し出されるようになり、1879(明治12)年に東京の「石川島平野造船所」に貸与され、1884(明治17)年に建物と機械は石川島へ移設された。
MAP __(フェリス女学院)【画像は1888(明治21)年~1900(明治33)年頃】

写真はかつての「吉浜橋」付近から撮影したもの。校名は戦後の1950(昭和25)年から「フェリス女学院」となっている。「派大岡川」自体と、その先の「堀川」の上空は首都高速道路に変わり、山手は一部しか望めなくなった。
MAP __(吉浜橋跡)

「ゲーテ座」と公衆電話 MAP __

開港後、横浜の居留民より劇場の開設を望む声が多くなり、1870(明治3)年、居留地六十八番(現・山下町68番地)に「ゲーテ座」が開場した。名前の「ゲーテ」は「陽気な(Gaiety)」という英語が由来。当初はアマチュア劇団が出演・管理していたが、1872(明治5)年からはパブリック・ホール(公会堂)として運営されるようになった。その後、規模の大きいホールが望まれるようになり、1885(明治18)年、山手居留地に「山手パブリック・ホール」(写真)が誕生、1908(明治41)年に会社化され、改めて「ゲーテ座」と命名された。演劇の上演や音楽の演奏会のほか、のちには映画の上映も行われ賑わっていたが、「関東大震災」で倒壊した。写真の左手には、横浜の中でも初期に設置された公衆電話が見える。
MAP __(初代の場所)【画像は1900年代と思われる】

跡地の一部には、横浜を拠点とする「岩崎学園」が創立50周年を記念して、「岩崎博物館」を1980(昭和55)年に開設した。館内には「山手ゲーテ座ホール」も設置され、音楽会や講演会などに利用されている。


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