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歴史深き地「上町台地」


日本列島を守護する神を祀る「生國魂神社」 MAP __

「生國魂神社」は、第一代神武天皇が東征に際して、「上町台地」の最北端の地、「石山崎」に日本国土の御神霊である「八十島神(やそしまがみ)」である「生島神」と「足島神」を祀ったのが始まりとされる。その後、羽柴(豊臣)秀吉による「大坂城」の築城により、現在の場所(天王寺区生玉町)に移った。写真は昭和戦前期の「生國魂神社」の拝殿。江戸時代からの社殿は、1912(明治45)年の「南の大火」で焼失、写真の社殿は1913(大正2)年に再建された。【画像は昭和戦前期】

1945(昭和20)年の「大阪大空襲」で焼失、1949(昭和24)年に再建されるも、1950(昭和25)年の「ジェーン台風」で倒壊。現在の社殿は1956(昭和31)年に再建された。本殿は「生國魂造」という桃山文化の独特の建築様式が継承されている。

「帝塚山」の地名の由来となった「帝塚山古墳」 MAP __

前方後円墳の「帝塚山(てづかやま)古墳」は「上町台地」の西の端に位置し、築造当時の古墳時代は海岸線が台地の近くまで来ており、海が望める場所であった。「帝塚山」の地名は、古くからの地名「玉出の岡」にある古墳(塚)から、「玉手塚」「手塚山」「帝塚山」といった変化で誕生したといわれる。5世紀後半から6世紀前半の豪族・大伴金村は晩年、このあたりに屋敷を構えていたとされる。南の「大帝塚(大玉手塚)」が大伴金村、北の「小帝塚(小玉手塚)」がその子、大伴狭手彦の墳墓と近年まで伝えられてきたが、現在ではそれより前、4世紀末~5世紀初頭の築造で被葬者は不明とされている。「帝塚山古墳」は1898(明治31)年の陸軍特別大演習の際に明治天皇が統監した場所でもあった。明治期には南北に大小2つの古墳が残っていたが、南の古墳(かつての「大帝塚」)は農地などの土として削られ小さくなったため、大小が入れ替わって呼ばれていた。明治中期に周辺で別荘地開発が盛んになるが、古墳が住吉村の村有地であったため開発を免れ、また明治天皇の統監以降は、ゆかりの地として管理されるようになった。

1925(大正14)年、住吉村が大阪市に編入されると、旧・住吉村の村有財産を管理する「住吉村常盤会」が設立され、現在に至るまで「帝塚山古墳」を含め管理を行っている。写真は昭和初期に「大帝塚」(古くは「小帝塚」)と呼ばれた「帝塚山古墳」。昭和初期における「小帝塚」(古くは「大帝塚」)の跡地は「大阪市立住吉中学校」付近となる。
MAP __(大阪市立住吉中学校)【画像は昭和初期】

「帝塚山古墳」は、住吉村(のち「住吉村常盤会」)の管理地であったため、周辺の開発が進む中、良好な保存状態で残り、1963(昭和38)年に国の史跡に指定された。1980年代頃には、地籍図、小字名などから大規模な「大帝塚山古墳」が「帝塚山駅」付近にあったと推定されるようになり、「帝塚山古墳」「大帝塚」「小帝塚」の場所や関係性について一層の混乱が見られる。
MAP __(大帝塚山古墳推定地)

全国の「住吉神社」の総本社「住吉大社」 MAP __

「住吉大社」は全国に約2,300社ある「住吉神社」の総本社で、「摂津国一宮」でもある。四棟の御本殿は「上町台地」上に位置しており、「住吉造」といわれる神社建築史上最古の様式の一つで、国宝に指定されている。「第一・第二・第三本宮」に海の神様として知られる「住吉三神」、「第四本宮」には神功皇后が祀られている。境内の「石舞台」や「反橋(太鼓橋)」も有名で、参道の「西大鳥居」(「一の鳥居」)も広く知られている。【画像は大正期】

広い境内をもつ「住吉大社」。阪堺線の「住吉鳥居前停留場」方面からは、「一の鳥居」をくぐると、「本宮」まで真っすぐな参道が続いている。

「熊野九十九王子」の一つ「阿倍王子神社」 MAP __

『摂州東成郡阿倍権現縁記』では、仁徳天皇の創建とされる「阿倍王子(あべおうじ)神社」。「熊野街道」沿いに鎮座する「熊野九十九王子(くじゅうくおうじ)」の一つ。「熊野街道」は平安時代に始まる「熊野詣」で利用された古道で、12~13世紀にかけて、参詣者の守護を祈願するため、沿道には多くの(最盛期には100か所以上ともいわれる)「王子社」が設けられた。写真は1926(大正15)年頃、拡幅整備が進められていた「阿倍野筋」側からの撮影。【画像は1926(大正15)年頃】

現在、「阿倍王子神社」は大阪府下で唯一、当時の場所から変わらずに鎮座する「王子社」となっている。「阿倍王子神社」の境外社(末社)として、約50m北側にある「安倍晴明神社」があり、平安時代の陰陽師として有名な安倍晴明の生誕地とされている。
MAP __(阿倍晴明神社)

「上町台地」の西側を通る「熊野街道」 MAP __

「上町台地」の西には、かつて海が迫っていた。台地の北側には、「淀川」河口近くの「渡辺津」(現「天満橋」付近)を起点とし、「四天王寺」や「阿倍王子神社」などを通り、紀州の「熊野三山」まで続く「熊野街道」(「熊野古道 紀伊路(きいじ)」)が開かれた。鎌倉期には「熊野詣」が庶民に広がり、「蟻の熊野詣」といわれるほどの盛観を示した。画像は『攝津名所圖會』で描かれた「阿倍王子神社」と、その前を通る「熊野街道」。【図は1798(寛政10)年】

「阿倍王子神社」前の住宅街の中を通る、かつての「熊野街道」。


大阪の歴史の中心地「上町台地」

「通天閣」から「四天王寺」方面を望む

写真は大正期の撮影で、「通天閣」から「上町台地」方面を望む。右奥に見える塔が「四天王寺」の五重の塔。中央右側付近の広場がある一帯が「大阪市立動物園」(現「大阪市天王寺動物園」)。
【画像は大正期】

「上町台地」は、「大阪平野」の中央、「大阪城」から「住吉大社」まで、南北約9km、東西約2kmにわたって延びる標高10~25m前後の洪積台地。約6000年前の縄文時代前期には三方に海が拡がる半島状の地形であった。台地上では古くから人々の営みが行われており、「森の宮遺跡」では貝塚や人骨なども発掘されている。

古代の「上町台地」も、海や湖、河川に囲まれていた。西側の台地の下は砂浜や干潟が拡がる浅瀬となっており、「難波津(なにわつ)」「住吉津(すみのえのつ)」と呼ばれる港があったという。台地上には「帝塚山古墳」「生國魂神社」「四天王寺」「住吉大社」「難波宮」が置かれるなど、政治、信仰、交易の中心地であった。「生國魂神社」は日本国土の御神霊とされる「生島神」「足島神」を祀り、「難波津」では平安時代から鎌倉時代まで、天皇の即位の儀式の一つである「八十島(やそしま)祭」も行われていたといわれており、国家的にも重要な地であったと考えられる。

戦国時代、「上町台地」上には蓮如上人により「大坂御坊」(後の「石山本願寺」)が開かれた。地形を利用した強固な要害をもち、城砦として強化され、後に織田信長との「石山合戦」の舞台となった。織田信長の死後、その家臣であった羽柴(豊臣)秀吉によって、「大坂城」が「石山本願寺」の跡地に築かれた。大坂は「大坂夏の陣」ののち、江戸幕府直轄領となり、「大坂城」は2代将軍徳川秀忠によって修築が行われた。「大坂城」の南側の「上町台地」上は武家地、寺町として発展した。

「上町台地」上では、明治時代以降も信仰の地としての歴史は引き継がれているほか、「天王寺駅」周辺は鉄道の要衝や中心商業地として、阿倍野、帝塚山周辺などは高級住宅地としても発展するなど、有史以来の大阪、そして日本の中心地となっている。


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※「おおさか」を漢字で書くとき「大阪」と「大坂」の表記がある。江戸時代は、「大坂」と書かれることが多かったが、大坂の「坂」の字が「土に反る」と読めるので縁起が悪いという理由で(諸説あり)、明治時代以降「大阪」に統一された。本文中では、江戸時代以前は「大坂」、明治時代以降は「大阪」に便宜上統一した。



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