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著名人の邸宅から、郊外住宅地としての開発へ

荻窪周辺の住宅地開発は、自然豊かな郊外の別荘・邸宅の建設に始まり、やがては通勤・通学に便利な立地を生かし、住宅、アパートへと変わっていった。西洋風の住宅、集合住宅なども増えていき、現在でも歴史を伝える建造物として見ることができる。


総理大臣を務めた近衛文麿氏の邸宅「荻外荘」 MAP __

戦前において内閣総理大臣を三度務めた近衛文麿(このえふみまろ)氏が1937(昭和12)年、大正天皇の侍医を務めた入澤達吉氏から荻窪の邸宅を購入した。設計は建築家の伊東忠太氏、購入後に近衛の後見人であった元老、西園寺公望(きんもち)氏によって「荻外荘(てきがいそう)」と命名された。同年6月には「第一次近衛内閣」が発足し、「荻外荘」では1940(昭和15)年7月、「第二次近衛内閣」の大臣就任予定者を集めた『荻窪会談』、1941(昭和16)年10月に対米開戦を回避するための『荻外荘会談』など、国の行方を左右する重要な会談が開かれた。近衛氏は1945(昭和20)年12月16日、「巣鴨拘置所」への出頭当日の早朝、「荻外荘」の自室で自決した。戦後は、政治家・吉田茂氏が1年程度私邸として使用していた。

写真の「荻外荘」は一部が豊島区へ移築された後の様子。【画像は1960(昭和35)年】

2014(平成26)年、杉並区が買い上げ「荻外荘公園」が一部暫定開放され、2016(平成28)年には国の史跡に指定された。現在、杉並区により「荻外荘復原・整備プロジェクト」が進められており、2024(令和6)年に「荻外荘公園」が開園する予定となっている。

昭和初期に誕生した洋式高級下宿「西郊ロッヂング」 MAP __

1923(大正12)年に発生した「関東大震災」後、都心から、荻窪など中央線沿線をはじめとする、「武蔵野台地」上の街に移住した人も多かった。「西郊ロッヂング」の初代経営者もそのひとりで、震災前は本郷で下宿を営んでいたという。1930(昭和5)年に木造2階建ての本館をスタートし、1937(昭和12)年に写真の2階建ての新館を増築。当時としては珍しく、洋間にベッド、クローゼットなどを備え、内線電話も設置されたモダンな高級下宿だった。1948(昭和23)年、本館は内部を改装し割烹旅館「西郊」となった。なお、「西郊」は「東京の西の郊外」という意味。【画像は昭和戦前期】

2000(平成12)年に新館は賃貸アパートメントに変わった。2009(平成21)年に割烹旅館、アパートメントとして現役のままともに、国の登録有形文化財となった。

テラスハウスと中層棟からなる「阿佐ヶ谷住宅」 MAP __

日本が高度経済成長期に入った頃の1958(昭和33)年、杉並区成宗(現・成田東)に分譲の団地「阿佐ヶ谷住宅」が誕生した。造成したのは「日本住宅公団」(現「UR都市機構」)で、建築家の津端修一氏が団地設計を担当した。全350戸あり、地上3・4階建ての中層棟(118戸)が配され、その周囲を地上2階建てのテラスハウス(232戸)が取り囲んだ。このテラスハウスは、「前川國男建築設計事務所」が設計した傾斜屋根タイプと、津端修一氏が設計した公団標準の陸屋根タイプに分かれていた。

写真は完成当時、1958(昭和33)年の「阿佐ヶ谷住宅」で、中央が中層棟、左がテラスハウス。【画像は1958(昭和33)年】

建物の老朽化から住民より建て替えの声が挙がるようになり、1998(平成10)年以降、本格的に建て替えが検討され、2013(平成25)年に着工、2016(平成28)年に「プラウドシティ阿佐ヶ谷」が完成となった。写真は現在の様子で、左の建物付近が過去の写真にあったテラスハウス跡地、右の建物付近が中層棟跡地となる。2023(令和5)年、「赤羽台団地」に開館した「URまちとくらしのミュージアム」では「阿佐ヶ谷住宅」のテラスハウスの住宅配置模型が展示されている。

写真は2007(平成19)年撮影の建て替え前の中層棟で、「31号棟」の西の中央広場から北東方向を望む。中央広場では、住民たちによる運動会などのイベントも開催されていた。【画像は2007(平成19)年】

写真はかつての「31号棟」の東側から北方面を望む。右は「成宗さくら公園」、左は「プラウドシティ阿佐ヶ谷 ガーデン(A街区)」。


大正から始まった区画整理

画像は区画整理によって生まれた「荻窪公園」

区画整理を記念して築造された「荻窪公園」。
【画像は1955(昭和30)年】

現在の「荻窪公園」

現在の「荻窪公園」。細長い長方形の公園となっている。

杉並区内には、整然とした住宅地がいくつかあり、その中には昭和戦前期の土地区画整理事業で誕生した街もある。代表的なものは、旧井荻町全域(現在の杉並区北西部)で行われた、約888haに及ぶ区画整理だった。

内田秀五郎氏が村長を務めた井荻村(のちの井荻町)では、1922(大正11)年から土地区画整理の先駆けとなる耕地整理が行われた。これは、同年に開業を果たす「西荻窪駅」の誘致とともに、将来の住宅地開発を目的とするものであった。このときの耕地整理は、約40haと小規模であったが、現在の「杉並区立井荻小学校」東側の「善福寺川」には、事業を記念して名付けられたと思われる「耕整橋」が残されている。1925(大正14)年には、「井荻村土地区画整理組合」が設立され、8工区に及ぶ「井荻村土地区画整理事業」が始まり、1935(昭和10)年に完成した。この間、1926(大正15)年に「井荻村」は「井荻町」と変わり、1932(昭和7)年に東京市杉並区の一部となった。
MAP __(耕整橋)

一連の事業に関連して、1930(昭和5)年、内田氏らが尽力したことで「善福寺池」周辺が風致地区に指定されている。現在、武蔵野の面影を残す自然が保たれている「善福寺公園」内には村の繁栄のために奔走した内田秀五郎氏の銅像があり、「井草八幡神社」には「井荻町土地区画整理碑」が建てられている。
MAP __(善福寺公園) MAP __(井草八幡神社)

また、第2工区の事業は、1931(昭和6)年に完成し、記念となる公園「荻窪公園」を築造し、1937(昭和12)年に開園した。杉並区内における、戦前期の唯一の公園かつ最古の公園となる。昭和戦前期には天沼、馬橋など区内各所で、規模の小さい土地区画整理も行われている。
MAP __(荻窪公園)


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