戦前において内閣総理大臣を三度務めた近衛文麿(このえふみまろ)氏が1937(昭和12)年、大正天皇の侍医を務めた入澤達吉氏から荻窪の邸宅を購入した。設計は建築家の伊東忠太氏、購入後に近衛の後見人であった元老、西園寺公望(きんもち)氏によって「荻外荘(てきがいそう)」と命名された。同年6月には「第一次近衛内閣」が発足し、「荻外荘」では1940(昭和15)年7月、「第二次近衛内閣」の大臣就任予定者を集めた『荻窪会談』、1941(昭和16)年10月に対米開戦を回避するための『荻外荘会談』など、国の行方を左右する重要な会談が開かれた。近衛氏は1945(昭和20)年12月16日、「巣鴨拘置所」への出頭当日の早朝、「荻外荘」の自室で自決した。戦後は、政治家・吉田茂氏が1年程度私邸として使用していた。
荻窪周辺の住宅地開発は、自然豊かな郊外の別荘・邸宅の建設に始まり、やがては通勤・通学に便利な立地を生かし、住宅、アパートへと変わっていった。西洋風の住宅、集合住宅なども増えていき、現在でも歴史を伝える建造物として見ることができる。