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「関東大震災」後の街づくり、地域の発展と整備

鉄道の整備と住宅地の発展は、さらなる人口の増加へと繋がった。「関東大震災」により、市内から富裕層をはじめとする住民が新しい住まいを求めて移住したことで、駅前には多くの商店や病院などの生活施設が誕生した。また、「中島飛行機」の工場をはじめ、工業地として発達した。


駅前から南に続く古道沿いでは、商店が建ち並んだ MAP __

「阿佐ケ谷駅」から「青梅街道」方面への道は古道「鎌倉街道」の一部であり、「貫井弁天」と「堀之内妙法寺」を結ぶ参詣道だった。1922(大正11)年に「阿佐ケ谷駅」が開設され、住宅街として発展し始めた頃から、商店が建ち並ぶようになった。「阿佐谷南本通商店会」が発足したのちは、並行する「中杉通り」の整備と合わせるように、1954(昭和29)年には歩行者専用の道路となり、夏の風物詩となる「阿佐谷七夕まつり」をスタートさせた。写真は「青梅街道」側の入口でアーチ照明が完成した時のもの。1960(昭和35)年には「阿佐谷パールセンター」の愛称が公募で選ばれ、2年後には全面アーケードとなった。【画像は1953(昭和28)年】

JR「阿佐ケ谷駅」から東京メトロ「南阿佐ヶ谷駅」まで続く「中杉通り」の東側に位置し、長さ約700m、店舗数約240の地域を代表する商店街となっている。

「阿佐谷七夕まつり」は、1954(昭和29)年に第一回が開催されて以降、阿佐谷の街の風物詩となった。毎年8月の7日を含む期間に開催されている。写真は昭和30年代の様子。【画像は昭和30年代】

写真は近年の「阿佐谷七夕まつり」の様子。地元の商店主らが、真夏の集客のため、全国各地の夏祭りを視察・研究した結果、「七夕まつり」がふさわしいとして開催が決まったといわれる。

「中島飛行機」の東京進出で、荻窪に工場が誕生

群馬県太田町(現・太田市)を拠点としていた「中島飛行機」は、1925(大正14)年に東京への進出を果たし、荻窪に「東京工場」を開設した。この工場では、1930(昭和5)年に国産第1号450馬力の「寿」、1936(昭和11)年に「零式艦上戦闘機(零戦)」に搭載された「栄」、1941(昭和16)年に「誉」といった航空機のエンジンを設計・製造していた。しかし「太平洋戦争」でアメリカ軍の空襲によって被害を受け、会社は戦後「GHQ」により12社に解体された。【画像は1936(昭和11)年】

戦後、解体された「中島飛行機」の「東京工場」は、その後、数度の会社名変更や合併を経て、1961(昭和36)年に「プリンス自動車工業」(本社および工場)となり、さらに1966(昭和41)年、「プリンス自動車工業」は「日産自動車」と合併し、「日産自動車 荻窪工場」となった。この工場は1998(平成10)年に閉鎖となり、跡地の一部は、2002(平成14)年に「桃井原っぱ広場」として開放、2011(平成23)年に防災機能を備えた「桃井原っぱ公園」として正式に開園した。 MAP __(杉並区立桃井原っぱ公園)

「桃井原っぱ公園」の隣接地、「日産プリンス東京」の自動車販売店の一画には、「旧中島飛行機発動機発祥之地」の碑が建てられており、ここが「中島飛行機」「プリンス自動車工業」「日産自動車」に所縁がある地であることを伝えている。MAP __(旧中島飛行機発動機発祥之地碑)

1928(昭和3)年に開設された「河北総合病院」 MAP __

1928(昭和3)年、河北(かわきた)真太郎が内科と小児科、30床の病院として「私立河北病院」を開設した。その後、地域住民の期待に応じ産婦人科、外科などの診療科を拡張し、地域と密着した医療機関に成長。1950(昭和25)年、「医療法人財団河北病院」となる。1957(昭和32)年、総合病院の認可を取得し、1988(昭和63)年には民間の医療機関では3番目となる「臨床研修病院」の指定を受けた。【画像は昭和戦前期】

現在は「社会医療法人河北医療財団」として「河北リハビリテーション病院」などを擁する杉並区の中核病院となっている。365日24時間の救急医療体制が整っているほか、介護や福祉への取り組みも進めている。


私鉄開通が相次いだ杉並 MAP __(青梅街道)

杉並区内を走る鉄道は、明治時代には「甲武鉄道」(のち国有化、現・JR中央線)だけで、設置された駅の数も少なかった。しかし、住宅地の開発が進んだ大正時代以降、私鉄路線が次々と開通した。

私鉄開通の先駆けとなったのが、「西武軌道」(後の都電杉並線)。明治時代に設立された「堀之内軌道」が新宿(角筈)~田無(町)間の敷設特許状を得たもので、「青梅街道」の上に路線を敷く、軌道線(路面電車)であった。しかし、建設はなかなか進まず、1921(大正10)年に名を変えた「西武軌道」が新宿(淀橋)~荻窪間を開通させた。

ようやく開通した「西武軌道」は、すぐに電気会社の「武蔵水電」と合併し、1922(大正11)年にはさらに「帝国電灯」に合併される。その際、分離された鉄道事業は旧「西武鉄道」に譲渡された。その後、新宿側の起点は角筈から「新宿駅」前まで延伸している。さらに1927(昭和2)年に、旧「西武鉄道」(現・西武新宿線)の東村山~高田馬場間が、1933(昭和8)年に「帝都電鉄」(現・京王井の頭線)の渋谷~井の頭公園間が開通して、南側を走る京王線を含めて、杉並区内に5本の鉄道路線が誕生した。

旧「西武鉄道」が現在の池袋線、新宿線などを有する「西武鉄道」に発展する過程で、軌道線は「東京乗合自動車」「東京地下鉄道」への委託を経て、1942(昭和17)年に「東京市電気局」(現「東京都交通局」)が運営管理する東京市電に編入。翌年に都制が始まり、1951(昭和26)年に正式に東京都に買収され都電杉並線となった。しかし、1962(昭和37)年に営団地下鉄荻窪線(現・東京メトロ丸ノ内線)が延伸したこともあって利用者が減少し、1963(昭和38)年に都電杉並線は廃止されている。

『西武鉄道沿線図絵』の一部

図は1927(昭和2)年の『西武鉄道沿線図絵』の一部。荻窪から中野方面へ延びる路線が描かれている。北側には西武鉄道が描かれているが、国鉄は省略されている。【画像は1927(昭和2)年】


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