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「目黒川」と「三田用水」が育む土地

江戸時代、江戸の近郊であった目黒・大崎。「目黒川」左岸(東岸)の自然豊かで見晴らしも良い高台上には大名の屋敷も置かれた。また「目黒川」や「三田用水」の水利は、農地・工場など、一帯の各時代の経済を支えた。


人々の生活と経済を支えた「目黒川」と「三田用水」 MAP __(目黒川) MAP __(三田用水跡)

幕末から明治初期頃、「目黒川」沿いには水車が設けられ、製粉や精米などが行われ、明治中期頃になると煙草製造や薬種精製など工業用途にも使用されはじめた。また、江戸初期に「玉川上水」から引かれた「三田上水」は、上水道として利用されたほか、余水は農業用水としての利用が許され周辺の農地を潤した。上水は1722(享保7)年に廃止されるが、農民の嘆願により農業用水として再使用されることになり「三田用水」となった。明治期に入ると「目黒火薬製造所」や「日本麦酒醸造会社」などが誕生、「三田用水」は工業にも使用されるようになった。

地図は現在の目黒区域における1880(明治13)年頃の水車の分布を示したもの。【地図は1880(明治13)年頃の様子】

水車は電力の普及と、昭和初期に完了した「目黒川改修工事」で姿を消した。「三田用水」は1974(昭和49)年に通水が停止され、役目を終えた。写真は「目黒新橋」から望む「目黒川」の下流方面。中央奥・左岸側の大きいビルは「目黒雅叙園」の敷地内にある「アルコタワー」。

江戸期から大正期まで続いた火薬製造の拠点 MAP __

徳川幕府は1857(安政4)年、千駄ヶ谷にあった焔硝蔵(えんしょうぐら・火薬庫)を移転し「目黒砲薬製造所」を開設。「明治維新」後も、同地が海軍・陸軍による「目黒火薬製造所」の用地として選ばれた。これらの火薬製造所に選ばれた背景には、「目黒川」や「三田用水」などによる水利に恵まれていたこと、また「茶屋坂」上の高台から「目黒川」にかけての傾斜地が砲薬調合用の水車を回すのに適していたことが挙げられる。「目黒火薬製造所」は「日清」「日露」の両戦争で増産を重ねたが、1923(大正12)年に発生した「関東大震災」の影響や周辺の都市化・工業地化により、1928(昭和3)年に群馬県へ移転した。

「目黒火薬製造所」の跡地には「海軍技術研究所」が築地より移転することになり、1930(昭和5)年に移転完了となった。写真奥が「海軍技術研究所」、手前は「目黒川」に架かる「田楽橋」。【画像は昭和前期】

終戦後、「海軍技術研究所」は「イギリス連邦占領軍」に接収され、接収解除後は「防衛庁」(現「防衛省」)の技術研究所・研修所となった。現在は「防衛省目黒地区」として「防衛装備庁」「統合幕僚学校」などの施設が置かれている。

アール・デコの様式美「朝香宮邸」 MAP __

久邇宮(くにのみや)朝彦親王の第8王子である朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう)が1933(昭和8)年に建造した「朝香宮邸」。フランス人芸術家アンリ・ラパンが内装設計を手掛けたもので、当時流行していたアール・デコの様式美と、それを実現させた日本古来の高度な職人技を今に伝えている。戦後は皇籍離脱が進められ、朝香宮家も皇籍から外れた。「朝香宮邸」の建物は吉田茂外相・首相公邸として使用されたほか、国賓を迎える「白金迎賓館」として使用された時期もあった。【画像は竣工当時、1933(昭和8)年頃】

1983(昭和58)年から「旧朝香宮邸」は「東京都庭園美術館」の本館として使用されている。2015(平成27)年には、その歴史的・意匠的価値から国の重要文化財に指定された。

都会に残された深い森「自然教育園」 MAP __

白金台に広がる「国立科学博物館附属自然教育園」の源流は、1664(寛文4)年に幕府から下賜された「高松藩松平家下屋敷」にまで遡る。多様な草木が息づく庭園だったが、「明治維新」後は海軍・陸軍の火薬庫に転用され、1917(大正6)年には「宮内省」(現「宮内庁」)所管の「白金御料地」となった。当時の広さは7万6852坪余に及んだという。戦中戦後は荒廃が進んだものの、1949(昭和24)年に「文部省」(現「文部科学省」)所管の元で「天然記念物及び史跡」に指定され、「国立自然教育園」として一般公開されるようになった。【画像は1959(昭和34)年】

都会の一角に深い森を湛えた「自然教育園」。その中には、中世の豪族「白銀(しろがね)長者」の土塁に囲まれた屋敷跡が今も残る。「物語の松」の老木は、大名庭園当時の名残といわれる。


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