このまちアーカイブス INDEX

工業地域への発展

明治期に入ると、目黒・大崎は都心近郊の広い土地と水利のよさから、官民の工場が展開する工業地域となった。軍需への対応から初の国産品開発、世界に知られるようになった電気製品の展開まで、日本の工業を支えたものは多い。


製薬から教育にも展開、星一氏が創業した「星製薬」 MAP __

「ホシの赤缶」として親しまれた「ホシ胃腸薬」や、日本初のワクチン開発などで知られる「星製薬」は、1911(明治44)年に現在の福島県いわき市出身の星一氏が創業し、大正期に本社工場を大崎に建設した。星氏は、同社の経営の一環として教育部門を開設し、全人教育を展開。教育部門は1922(大正11)年に「星製薬商業学校」となり、現在の「星薬科大学」へと発展した。創業者はSF作家の星新一氏の父であり、細菌学者の野口英世氏との終生の交友でも知られる。写真中央下の白い建物が工場で、左上のドームのある建物が「星製薬商業学校」。【画像は昭和前期】

1967(昭和42)年、「星製薬」は「東京卸売りセンター(TOC)」を設立、1982(昭和57)年に「株式会社テーオーシー」へ商号変更し、新会社として改めて「星製薬」を設立した。「TOCビル」には、ファッションをはじめとする小売店やオフィスが多数入居していたほか、「星製薬」の本社も入っていたが、2024(令和6)年に建て替えのため閉館となった。写真は2024(令和6)年の撮影。【画像は2024(令和6)年】

大崎の発展に寄与した「明電舎」と重宗芳水氏 MAP __

「明電舎」は、山口県出身の重宗芳水氏が1897(明治30)年、京橋区船松町(現・中央区湊三丁目)で開設した建坪20余の電機工場から始まった。日本初の回転界磁型三相交流発電機や「明電舎モートル」の開発によって、国産モーターの道を拓いた。1913(大正2)年に大崎の地へ移転。工場も拡大し、株式会社化した重宗氏は、大崎が工業地として発展する中で、小学校が不足していることを不憫に思い、その寄贈を申し出た。そして重宗氏が逝去した翌年にあたる1918(大正7)年、「芳水尋常小学校」(現「品川区立芳水小学校」)が創設された。
MAP __(品川区立芳水小学校)【画像は1916(大正5)年】

「大崎駅西口E東地区」の再生計画により建設された「Think Park」。「明電舎」と「世界貿易センタービルディング」の共同再開発事業で、2007(平成19)年8月に竣工した。

ボーリング技術のパイオニア「利根ボーリング」 MAP __

「目黒川」にかかる「目黒新橋」の北側東岸に本社工場を構えていた「利根ボーリング」は、日本のボーリングマシンのパイオニアである塩田岩治氏が1917(大正6)年に神戸で始めた「塩田商店」を源流とする。のちに「利根商店」「利根製作所」「株式会社利根ボーリング」「株式会社利根」と改称した。目黒に移転したのは1936(昭和11)年のこと。探鉱ボーリング機械の製造・販売と、地質調査・探鉱試錐・温泉掘削などボーリング機械を使用した一切の工事・研究を手掛ける会社として、国内外で幅広く事業を展開した。【画像は1939(昭和14)年】

戦災により同地の工場はほぼ焼失したが、戦後に再興を遂げた。現在は、その技術を引き継ぐ企業が存在している。「目黒川」沿いのかつての工場の跡地には、高層マンションなどが建ち並ぶ。

「御殿山」から世界へと進出した「ソニー」 MAP __

日本を代表する電機メーカー「ソニー」は、1946(昭和21)年、日本橋で創業し、翌年1月20日に「御殿山」に本社と工場を移転した。創業時の社名は「東京通信工業」。戦時中、同じ会社で国のために力を注いだ技術者たちが、再び集まって立ち上げた会社だった。日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を1955(昭和30)年9月に発売し、世界にその名を轟かせた。【画像は1965(昭和40)年頃】

かつて本社があった場所は、オフィスビル「ガーデンシティ品川御殿山」となっている。「ソニー」の創業の地周辺にはいくつかの事業所が残るのみとなった。


次のページ 大名屋敷から住宅街へ


MAP

この地図を大きく表示



トップへ戻る