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目黒・大崎に誕生した教育・研究機関

明治後期以降、東京の鉄道網が発達すると、都心に近い目黒・大崎の地は、広い土地が求めやすかったこともあり、研究・教育施設の移転先や新設の地となった。


「林業試験場」から「都立林試の森公園」へ MAP __

1878(明治11)年、「内務省地理寮」は西ヶ原(現・東京都北区西ヶ原)に「樹木試験場」を設置、1881(明治14)年に「農商務省」へ移管された。1900(明治33)年に目黒へ移転となり「目黒試験苗圃」が開設され、1905(明治38)年に「林業試験所」へ改称した。写真は1907(明治40)年の「林業試験所」正門。1910(明治43)年に「林業試験場」へ改称となった。【画像は1907(明治40)年】

「林業試験場」は、その後も数度の改組を経て、戦後の1949(昭和24)年に「林野庁」の付属機関となった。1978(昭和53)年に「筑波研究学園都市」へ移転し、現在は「独立行政法人森林総合研究所」へ改組されている。目黒の「林業試験場」跡地には「都立林試の森公園」(写真)が整備され、1989(平成元)年に開園した。

「日出学園」から「目黒日本大学中学校・高等学校」へ MAP __

2019(平成31)年に「日出学園」から校名を変更した「目黒日本大学中学校・高等学校」は、1903(明治36)年、小林芳次郎と妻・雛子が、芝高輪台町の「大教寺」境内に開設した裁縫塾を前身とする。1919(大正8)年に目黒の現在地に移転、1921(大正10)年に「日出高等女学校」となった。写真は手旗信号体操の様子。【画像は昭和前期】

戦後、新制「日出女子学園高等学校」となり、2001(平成13)年に「日出高等学校」に改称、2005(平成17)年に男女共学化。2013(平成25)年には創立110周年を迎え、2015(平成27)年に校舎の改築が完成した。2019(平成31)年より「日本大学」の準付属校となり、「目黒日本大学中学校・高等学校」に改称された。「日出女子学園高等学校」時代から「芸能クラス」もあり、多くの芸能人を輩出している。写真は「権之助坂商店街」から望む「目黒日本大学中学校・高等学校」。この階段を下った先に正門がある。

谷山ケ丘に建つ「立正大学」 MAP __

「立正大学」の開校の起点は、1872(明治5)年、東京府芝区二本榎(現・港区高輪一丁目付近)に設立された「日蓮宗小教院」。1904(明治37)年、現在地となる谷山ケ丘の地に「日蓮宗大学林」(写真)を開校、1907(明治40)年に「日蓮宗大学」へ改称した。1924(大正13)年、「大学令」によって「立正大学」を設立。校名の「立正」は、日蓮宗の宗祖、日蓮聖人が執筆した『立正安国論』に由来する。【画像は1904(明治37)年】

「立正大学」は、1945(昭和20)年5月の空襲で、コンクリート造りの一部を除き、校舎を焼失。戦後の1952(昭和27)年、第16代学長に石橋湛山氏が就任し、復興と教学振興をけん引、総合大学への道筋をつけた。石橋氏は在任中の1956(昭和31)年からは第55代内閣総理大臣も務めた。1980年代後半からキャンパスの再整備が始まり、1992(平成4)年に「石橋湛山記念講堂」も竣工。その後も学部・学科の再編やキャンパスの再整備が進められ、2022(令和4)年には開校150周年を迎えた。

日本における服飾教育の先駆け「杉野学園」 MAP __

日本のファッション界のパイオニアとして知られる杉野芳子氏は、小学生の頃からアメリカへの憧れを抱き、1914(大正3)年、22歳で単身渡米。現地で洋装を覚えた。1926(大正15)年に「ドレスメーカー女学院」(現「ドレスメーカー学院」)を創設。1935(昭和10)年には、「日比谷公会堂」で日本初のファッションショーを開催するなど、日本における服飾教育の確立とモードの創出に取り組んだ。写真は1955(昭和30)年に完成した本校舎。【画像は1955(昭和30)年】

「目黒駅」西側から南に延びる道は通称「ドレメ通り」と呼ばれる。学園の中枢部である本校舎は、完成当時の面影を残しながら現在も使用されている。


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